墨子 / 明鬼下
今執無鬼者曰:意不忠親之利,而害為孝子乎?子墨子曰:古今之為鬼,非他也,有天鬼,亦有山川鬼神者,亦有人死而為鬼者。今有子先其父死,弟先其兄死者矣。意雖死然,然而天下之陳物,曰先生者先死。若是,則先死者非父則母,非兄而姒也。今潔為酒醴粢盛,以敬慎祭祀。若使鬼神誠有,是得其父母姒兄而飲食之也,豈非厚利哉?
書き下し
今、無鬼を執る者曰く、意うに親の利に忠ならずして、孝子を害するを為さんか、と。子墨子曰く、古今の鬼を為すは、他に非ざるなり。天鬼有り、亦た山川鬼神なる者有り、亦た人、死して鬼と為る者有り。今、子の其の父に先んじて死し、弟の其の兄に先んじて死する者有り。意うに死すること然りと雖も、然り而して天下の陳物、曰く、先に生まるる者は先に死す、と。是くの若くんば、則ち先に死する者は父に非ざれば則ち母、兄に非ざれば而ち姒なり。今、潔く酒醴粢盛を為りて、以て敬み慎みて祭祀す。若し鬼神をして誠に有らしめば、是れ其の父母姒兄を得て之に飲食せしむるなり。豈に厚利に非ざらんや。
現代語訳
いま鬼神は無いと主張する者はこう言う。「思うに、それは親の利に忠実でなく、孝子を損なうのではないか」。墨子が言った。古今にいう鬼とは、ほかでもない。天の鬼があり、山川の鬼神があり、人が死んで鬼となったものもある。いま子が父より先に死に、弟が兄より先に死ぬこともある。しかし死ということについて、天下の常のことわりでは、先に生まれた者が先に死ぬ。とすれば、先に死ぬのは父でなければ母、兄でなければ姉である。いま清らかに酒と供物を整えて、敬い慎んで祭る。もし鬼神が本当に有るなら、それは父母や兄姉に飲み食いさせることになる。厚い利ではないか。
解説
祭祀を批判する側の論——費用がかかるだけだ——への反論です。順序を確認するところから始めます。ふつう先に死ぬのは親や年長者。ならば祭祀の相手は自分の父母や兄姉である。抽象的な「鬼神」を、具体的な自分の身内に置き換えることで、費用の意味を変えてしまう。論点を、支出の是非から誰への支出かに移す手法です。
この章句が説くこと
祭祀身内費用の意味論点移動順序
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