呻吟語 / 外篇・品藻・古人の笑ふ所
宋儒泥古,更不考古昔真偽,今世是非。只如祭祀一節,古人席地不便於飲食,故尚簠簋籩豆,其器皆高。今祭古人用之,從其時也。子孫祭祖考,只宜用祖考常用所宜,而簠簋籩豆是設可乎?古者墓而不墳,不可識也,故不墓祭。後世父母體魄所藏,巍然丘壠,今欲舍人子所睹記者而敬數寸之木可乎?則墓祭似不可已也。諸如此類甚多,皆古人所笑者也。使古人生於今,舉動必不如此。
新字:宋儒泥古,更不考古昔真偽,今世是非。只如祭祀一節,古人席地不便於飲食,故尚簠簋籩豆,其器皆高。今祭古人用之,従其時也。子孫祭祖考,只宜用祖考常用所宜,而簠簋籩豆是設可乎?古者墓而不墳,不可識也,故不墓祭。後世父母体魄所蔵,巍然丘壠,今欲舎人子所睹記者而敬数寸之木可乎?則墓祭似不可已也。諸如此類甚多,皆古人所笑者也。使古人生於今,舉動必不如此。
書き下し
宋儒は古に泥み、更に古昔の真偽、今世の是非を考へず。只だ祭祀一節の如し。古人は席地にして飲食に便ならず。故に簠簋籩豆を尚び、其の器は皆な高し。今古人を祭るに之を用ふるは、其の時に從ふなり。子孫の祖考を祭るは、只だ祖考の常に用ひし所の宜しきを用ふ可し。而るに簠簋籩豆是れ設くるは可ならんや。諸の此の類の如きは甚だ多く、皆な古人の笑ふ所なり。古人をして今に生まれしめば、舉動必ず此の如くならざらん。
現代語訳
宋の儒者は古に泥んで、昔の真偽も今の世の是非も調べません。祭祀の一節を見てもそうです。昔の人は地面に座って飲食に不便だったので、高い脚のついた器を尊びました。今それで古人を祭るのは、その時代に従うからです。子孫が祖父母を祭るなら、祖父母が普段使っていたものを用いればよい。それなのに古式の器を並べてよいのでしょうか。この類のことは実に多く、みな古人が笑うところです。古人が今に生まれたら、こんな振る舞いはしないでしょう。
解説
祭祀の器を例に、復古の不自然さを突きます。高い脚の器は、地面に座る生活のための工夫でした。だから祖父母を祭るなら、祖父母が使った器でよい。そして古人が今に生まれたらこうはしないと結びます。形を守るより意図を汲めという主張が、具体例で示された一段になっています。形の由来を問えば、守るべきかどうかが見えてきます。
この章句が説くこと
祭祀器復古意図形式
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