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慎思録 / 巻之三

本邦古來。忠臣孝子廉潔高行者不少。雖澆漓季世亦然矣。無文士之能記之者。往往埋沒無聞者。何可勝計耶。此爲可憾耳。大凡格致之工夫。其目有四焉。中庸所謂博學審問愼思明辨。是也。此四件。闕其一則不可也。而以博學爲規模。非博學。則雖欲審問愼思明辨。然固陋偏狹。而無所施功。竊謂。審問屬于博學。明辨屬于愼思。然則爲學之道。其要在學與思而已。故論語曰。學而不思則罔。思而不學則殆。此非以學與思相對說乎。夫博學審問二者。求於人也。所求在外。愼思明辨二者。求於己也。所求在中。故雖博學審問。然不愼思明辨。則其所學徒在外。汗漫而不能自得于心。後之學者。博學者或有之。然不能格物致知者。豈非徒事博學。而闕愼思之功夫之故乎。故博學審問。是開初發功之事。愼思明辨。是成終收功之事。且所學氾濫。則駁雜而無功。所謂誠意正心修身齊家治國平天下。此六者。則格物致知之目。而博學之序也。博學者。學之而巳。是循序漸進。而自本往末。自近行遠者也。然則古之所謂博學。與今之博學異矣。

新字:本邦古来。忠臣孝子廉潔高行者不少。雖澆漓季世亦然矣。無文士之能記之者。往往埋没無聞者。何可勝計耶。此為可憾耳。大凡格致之工夫。其目有四焉。中庸所謂博学審問慎思明弁。是也。此四件。闕其一則不可也。而以博学為規模。非博学。則雖欲審問慎思明弁。然固陋偏狭。而無所施功。窃謂。審問属于博学。明弁属于慎思。然則為学之道。其要在学与思而已。故論語曰。学而不思則罔。思而不学則殆。此非以学与思相対説乎。夫博学審問二者。求於人也。所求在外。慎思明弁二者。求於己也。所求在中。故雖博学審問。然不慎思明弁。則其所学徒在外。汗漫而不能自得于心。後之学者。博学者或有之。然不能格物致知者。豈非徒事博学。而闕慎思之功夫之故乎。故博学審問。是開初発功之事。慎思明弁。是成終収功之事。且所学氾濫。則駁雑而無功。所謂誠意正心修身斉家治国平天下。此六者。則格物致知之目。而博学之序也。博学者。学之而巳。是循序漸進。而自本往末。自近行遠者也。然則古之所謂博学。与今之博学異矣。

書き下し

本邦古来、忠臣孝子廉潔高行の者少なからず。澆漓の季世と雖も亦然り。文士の能く之を記する者無し。往往埋没して聞こゆる無き者、何ぞ勝げて計ふべけんや。此れ憾むべしと為すのみ。大凡格致の工夫、其の目に四有り。中庸の所謂博学審問慎思明弁、是れなり。此の四件は、其の一を闕けば則ち不可なり。而して博学を以て規模と為す。博学に非ざれば、則ち審問慎思明弁せんと欲すと雖も、然れども固陋偏狭にして、功を施す所無し。窃かに謂ふ、審問は博学に属し、明弁は慎思に属す。然らば則ち学を為すの道は、其の要学と思とに在るのみ。故に論語に曰く、学んで思はざれば則ち罔し、思うて学ばざれば則ち殆し、と。此れ学と思とを以て相対して説くに非ずや。夫れ博学審問の二者は、人に求むるなり。求むる所外に在り。慎思明弁の二者は、己に求むるなり。求むる所中に在り。故に博学審問すと雖も、然れども慎思明弁せざれば、則ち其の学ぶ所徒らに外に在り、汗漫にして自ら心に得る能はず。後の学者、博学なる者或いは之有り。然れども格物致知する能はざる者は、豈に徒らに博学を事として、慎思の功夫を闕くの故に非ずや。故に博学審問は、是れ開初発功の事なり。慎思明弁は、是れ成終収功の事なり。且つ学ぶ所氾濫すれば、則ち駁雑にして功無し。所謂誠意正心修身斉家治国平天下、此の六者は、則ち格物致知の目にして、博学の序なり。博学とは、之を学ぶのみ。是れ序に循ひて漸く進みて、本より末に往き、近きより遠きに行く者なり。然らば則ち古の所謂博学は、今の博学と異なれり。

現代語訳

わが国には昔から、忠臣・孝子・清廉潔白で高い行いの人が少なくありません。人情の薄れた末の世でも同じです。しかしそれを記録できる文人がいません。しばしば埋もれて世に知られない者は数えきれません。これは残念なことです。およそ格物致知の工夫には四つの項目があります。『中庸』のいう博学・審問・慎思・明弁がそれです。この四つは一つでも欠けてはなりません。そして博学を枠組みとします。博学でなければ、詳しく問い、慎んで思い、明らかに弁じようとしても、見識が狭く偏っていて、工夫を施す所がありません。ひそかに思うに、審問は博学に属し、明弁は慎思に属します。そうであれば学問の道は、その要が学ぶことと思うことにあるだけです。だから『論語』に「学んで思わなければ暗い。思って学ばなければ危うい」とあります。これは学と思とを対にして説いたものではないでしょうか。そもそも博学と審問の二つは人に求めるもので、求めるものは外にあります。慎思と明弁の二つは自分に求めるもので、求めるものは内にあります。ですから広く学び詳しく問うても、慎んで思い明らかに弁じなければ、学んだものはただ外にあるだけで、とりとめがなく自分の心に得ることができません。後世の学者には博学な者もいますが、格物致知ができないのは、ただ博学ばかりを事として、慎思の工夫を欠いているからではないでしょうか。だから博学と審問は始めに功を起こす事であり、慎思と明弁は終わりに功を収める事なのです。また学ぶものがあふれ広がりすぎれば、雑多で功がありません。いわゆる誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の六つは、格物致知の項目であり、博学の順序です。博学とは、これを学ぶことにほかなりません。順序に従って次第に進み、本から末へ、近くから遠くへ行くものです。そうであれば、昔のいう博学は今の博学とは違うのです。

解説

冒頭に、日本の忠臣孝子の事跡が記録されず埋もれることを惜しむ短い一文があり、その後に書名の由来に関わる学問論が続きます。『中庸』第二十章の博学・審問・慎思・明弁を、外に求める学と内に求める思の二つに整理し、『論語』為政篇の「学んで思はざれば則ち罔し」で裏づけます。益軒は、慎思を欠いた博学は汗漫で身につかないと言い、博学とは『大学』の条目に沿って本から末へ進むことだと定義し直しました。情報を集めるだけでなく、自分で考え抜いて初めて知は自分のものになるという教えです。

この章句が説くこと

慎思学問格物博学中庸

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