童子問 / 卷上
童子曰。甚哉學問之大乎。願聞其詳。曰。宋明儒先皆以盡性爲極則。而不知學問之功益大矣。殊不知己之性有限。而天下之道無窮。以有限之性。而欲盡無窮之道。則非學問之功。不可得也。此孔門所以專貴敎也。中庸曰。唯天下至誠。爲能盡其性。能盡其性。則能盡人之性。能盡人之性。則能盡物之性。能盡物之性。則可以贊天地之化育。可以贊天地之化育。則可以與天地參矣。所謂能盡其性者。就吾性之分內而言。至於其盡人物之性。而贊天地之化育。則雖亦盡我性之推。豈徒盡我性而已哉。夫人之與我。異體殊氣。其疾痛病癢。皆不相關。況人之與物。異類殊形。何相干涉。謂財成輔相天地之道。使萬物各遂其性。則可矣。謂之盡我性。而可乎哉。然則。唯盡我性。而非由學問之功。不可得也明矣。
新字:童子曰。甚哉学問之大乎。願聞其詳。曰。宋明儒先皆以尽性為極則。而不知学問之功益大矣。殊不知己之性有限。而天下之道無窮。以有限之性。而欲尽無窮之道。則非学問之功。不可得也。此孔門所以専貴教也。中庸曰。唯天下至誠。為能尽其性。能尽其性。則能尽人之性。能尽人之性。則能尽物之性。能尽物之性。則可以賛天地之化育。可以賛天地之化育。則可以与天地参矣。所謂能尽其性者。就吾性之分内而言。至於其尽人物之性。而賛天地之化育。則雖亦尽我性之推。豈徒尽我性而已哉。夫人之与我。異体殊気。其疾痛病癢。皆不相関。況人之与物。異類殊形。何相干渉。謂財成輔相天地之道。使万物各遂其性。則可矣。謂之尽我性。而可乎哉。然則。唯尽我性。而非由学問之功。不可得也明矣。
書き下し
童子曰く、甚だしいかな学問の大なるや。願はくは其の詳を聞かんと。曰く、宋明の儒先皆性を尽くすを以て極則と為して、学問の功の益大なることを知らず。殊に知らず、己の性は限り有りて、天下の道は窮まり無きことを。限り有るの性を以て、窮まり無きの道を尽くさんと欲す。則ち学問の功に非ざれば、得べからざるなり。此れ孔門の専ら教を貴ぶ所以なり。中庸に曰く、唯だ天下の至誠のみ、能く其の性を尽くすと為す。能く其の性を尽くせば、則ち能く人の性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、則ち以て天地の化育を賛くべし。以て天地の化育を賛くべければ、則ち以て天地と参なるべしと。所謂能く其の性を尽くすとは、吾が性の分内に就きて言ふ。其の人物の性を尽くして、天地の化育を賛くるに至りては、則ち亦た我が性を尽くすの推しと雖も、豈に徒らに我が性を尽くすのみならんや。夫れ人の我に与ける、体を異にし気を殊にして、其の疾痛病癢、皆相関らず。況んや人の物に与ける、類を異にし形を殊にす、何ぞ相干渉せん。財成輔相して天地の道に、万物をして各其の性を遂げしむと謂ふは、則ち可なり。之を我が性を尽くすと謂ひて、可ならんや。然らば則ち唯だ我が性を尽くすのみにして、学問の功に由るに非ずんば、得べからざること明らかなり。
現代語訳
童子は言った。「学問とはなんと大きいものでしょう。どうか詳しくお聞かせください。」答えて言う。「宋・明の儒者たちは皆、性を尽くすことを究極の目標として、学問の働きがそれよりさらに大きいことを知らない。とりわけ、自分の性には限りがあり、天下の道には窮まりがないことを知らない。限りのある性で窮まりのない道を尽くそうとするのだから、学問の働きによらなければ得られない。これが孔子門下がもっぱら教を貴んだ理由である。中庸に『ただ天下の至誠の人だけが自分の性を尽くすことができる。自分の性を尽くせば人の性を尽くすことができ、人の性を尽くせば物の性を尽くすことができ、物の性を尽くせば天地の化育を助けることができ、天地の化育を助けることができれば天地と並び立つことができる』とある。ここでいう『自分の性を尽くす』とは、自分の性の範囲内について言ったものである。人や物の性を尽くして天地の化育を助けるに至っては、自分の性を尽くすことを推し及ぼしたものではあっても、どうしてただ自分の性を尽くすだけのことであろうか。そもそも他人と自分とは体も気も別であって、その痛みやかゆみは互いに関わりがない。まして人と物とは種類も形も異なる。どうして互いに関わり合おうか。天地の道を調え助けて、万物にそれぞれの性を遂げさせると言うのならよい。それを自分の性を尽くすことだと言ってよいだろうか。だから、ただ自分の性を尽くすだけで、学問の働きによらなければ、それが得られないことは明らかである。」
解説
この章句が説くこと
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言志四録・言志録 第百九十九条 心の智愚は学びて変ずべし人の受くる所の気、其の厚薄の分数は、大抵相若く。躯の大小、寿の脩短、力の強弱、心の智愚の如き、大いに相遠き者無し。其の間一処の受くること厚き者有れば、皆之を非常と謂ふ。非常は則ち姑く之を置く。常人の如きに就きては、躯と寿と力との分数は、之を奈何ともすべからず。独り心の智愚に至りては、学びて之を変化すべし。故に博く学び、審かに問ひ、慎みて思ひ、明らかに弁じ、篤く行ふ。人一たび十たびすれば、己は之を百たび千たびす。果たして此の道を能くせば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強からん。以て漸く非常の域に進むべし。蓋し此の理有り。但だ常人は多く遊惰にして然ること能はず。豈に亦天に算籌有るか。
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