翁問答 / 下卷之本
體充曰、十三經も書數おほく候て、凡夫の分にて皆まで學び候事及びがたく覺へ候そのうちにて一二卷まなび候て大綱の得心なりやすき書はおはしまさず候や。師の曰、本來易經一部をおしひろめたる十三經なれば、易經をよく學びたるがよろし、しかれども易經は簡奥玄妙にして、凡夫のとりいりなりがたきによつて、孝經、大學中庸を心にて心をよみよく學びぬれば大綱の得心なりやすし、三書學びて餘力あるものは、其力とひまに隨ひて語孟をまなぶべし、さて又餘力あるものは十三經をみな學びたるがよし、
新字:体充曰、十三経も書数おほく候て、凡夫の分にて皆まで学び候事及びがたく覚へ候そのうちにて一二巻まなび候て大綱の得心なりやすき書はおはしまさず候や。師の曰、本来易経一部をおしひろめたる十三経なれば、易経をよく学びたるがよろし、しかれども易経は簡奥玄妙にして、凡夫のとりいりなりがたきによつて、孝経、大学中庸を心にて心をよみよく学びぬれば大綱の得心なりやすし、三書学びて余力あるものは、其力とひまに随ひて語孟をまなぶべし、さて又余力あるものは十三経をみな学びたるがよし、
書き下し
体充曰、十三経も書数おほく候て、凡夫の分にて皆まで学び候事及びがたく覚へ候そのうちにて一二巻まなび候て大綱の得心なりやすき書はおはしまさず候や。師の曰、本来易経一部をおしひろめたる十三経なれば、易経をよく学びたるがよろし、しかれども易経は簡奥玄妙にして、凡夫のとりいりなりがたきによつて、孝経、大学中庸を心にて心をよみよく学びぬれば大綱の得心なりやすし、三書学びて余力あるものは、其力とひまに随ひて語孟をまなぶべし、さて又余力あるものは十三経をみな学びたるがよし、
現代語訳
體充が言う。「十三経も書物の数が多く、凡夫の身でみな学ぶことは及びがたく思われる。そのうち一二巻を学んで大綱を納得しやすい書物はないか」。師が答える。「本来、易経一部を押し広めたのが十三経であるから、易経をよく学ぶのがよい。しかし易経は簡奥玄妙で、凡夫には取り入りにくいので、孝経・大学・中庸を、心で心を読むようにしてよく学べば、大綱を納得しやすい。三書を学んで余力のある者は、その力とひまに応じて論語・孟子を学ぶがよい。さらに余力のある者は十三経をみな学ぶのがよい」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷上童子曰く、甚だしいかな学問の大なるや。願はくは其の詳を聞かんと。曰く、宋明の儒先皆性を尽くすを以て極則と為して、学問の功の益大なることを知らず。殊に知らず、己の性は限り有りて、天下の道は窮まり無きことを。限り有るの性を以て、窮まり無きの道を尽くさんと欲す。則ち学問の功に非ざれば、得べからざるなり。此れ孔門の専ら教を貴ぶ所以なり。中庸に曰く、唯だ天下の至誠のみ、能く其の性を尽くすと為す。能く其の性を尽くせば、則ち能く人の性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、則ち以て天地の化育を賛くべし。以て天地の化育を賛くべければ、則ち以て天地と参なるべしと。所謂能く其の性を尽くすとは、吾が性の分内に就きて言ふ。其の人物の性を尽くして、天地の化育を賛くるに至りては、則ち亦た我が性を尽くすの推しと雖も、豈に徒らに我が性を尽くすのみならんや。夫れ人の我に与ける、体を異にし気を殊にして、其の疾痛病癢、皆相関らず。況んや人の物に与ける、類を異にし形を殊にす、何ぞ相干渉せん。財成輔相して天地の道に、万物をして各其の性を遂げしむと謂ふは、則ち可なり。之を我が性を尽くすと謂ひて、可ならんや。然らば則ち唯だ我が性を尽くすのみにして、学問の功に由るに非ずんば、得べからざること明らかなり。
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言志四録・言志録 第百九十九条 心の智愚は学びて変ずべし人の受くる所の気、其の厚薄の分数は、大抵相若く。躯の大小、寿の脩短、力の強弱、心の智愚の如き、大いに相遠き者無し。其の間一処の受くること厚き者有れば、皆之を非常と謂ふ。非常は則ち姑く之を置く。常人の如きに就きては、躯と寿と力との分数は、之を奈何ともすべからず。独り心の智愚に至りては、学びて之を変化すべし。故に博く学び、審かに問ひ、慎みて思ひ、明らかに弁じ、篤く行ふ。人一たび十たびすれば、己は之を百たび千たびす。果たして此の道を能くせば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強からん。以て漸く非常の域に進むべし。蓋し此の理有り。但だ常人は多く遊惰にして然ること能はず。豈に亦天に算籌有るか。
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『君子訓』巻之上一真西山曰、人の君たるもの、大学を知らずんばあるべからず。人の臣たるもの、大学を知らずんばあるべからずと言へり。君も臣も、身を修め国家天下を治むる道、大学の書にそなはれり。是を読みて受用せずんばあるべからず。又中庸の九経に、身を修め人を治むる道備れり、考ふべし。此二書を能く読みて、受用し行はば、外に求めずとも、其要は此うちにあるべし。
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『囲炉夜話』第二百一則・渾金璞玉の如し才有らば必ず韜藏す、渾金璞玉の如く、闇然として日に章かなり。 學を為すに間斷無し、流水行雲の如く、日に進みて已まざるなり。
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『酔古堂剣掃』集法・之を合すれば雙美晉人の清談、宋人の理學、晉人を以て俗を遺れ、宋人を以て躬を禔む。之を合すれば雙美、之を分かてば兩傷なり。
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『慎思録』巻之三本邦古来、忠臣孝子廉潔高行の者少なからず。澆漓の季世と雖も亦然り。文士の能く之を記する者無し。往往埋没して聞こゆる無き者、何ぞ勝げて計ふべけんや。此れ憾むべしと為すのみ。大凡格致の工夫、其の目に四有り。中庸の所謂博学審問慎思明弁、是れなり。此の四件は、其の一を闕けば則ち不可なり。而して博学を以て規模と為す。博学に非ざれば、則ち審問慎思明弁せんと欲すと雖も、然れども固陋偏狭にして、功を施す所無し。窃かに謂ふ、審問は博学に属し、明弁は慎思に属す。然らば則ち学を為すの道は、其の要学と思とに在るのみ。故に論語に曰く、学んで思はざれば則ち罔し、思うて学ばざれば則ち殆し、と。此れ学と思とを以て相対して説くに非ずや。夫れ博学審問の二者は、人に求むるなり。求むる所外に在り。慎思明弁の二者は、己に求むるなり。求むる所中に在り。故に博学審問すと雖も、然れども慎思明弁せざれば、則ち其の学ぶ所徒らに外に在り、汗漫にして自ら心に得る能はず。後の学者、博学なる者或いは之有り。然れども格物致知する能はざる者は、豈に徒らに博学を事として、慎思の功夫を闕くの故に非ずや。故に博学審問は、是れ開初発功の事なり。慎思明弁は、是れ成終収功の事なり。且つ学ぶ所氾濫すれば、則ち駁雑にして功無し。所謂誠意正心修身斉家治国平天下、此の六者は、則ち格物致知の目にして、博学の序なり。博学とは、之を学ぶのみ。是れ序に循ひて漸く進みて、本より末に往き、近きより遠きに行く者なり。然らば則ち古の所謂博学は、今の博学と異なれり。
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