酔古堂剣掃 / 集法・之を合すれば雙美
晉人清談,宋人理學,以晉人遺俗,以宋人禔躬,合之雙美,分之兩傷也。
新字:晋人清談,宋人理学,以晋人遺俗,以宋人禔躬,合之双美,分之両傷也。
書き下し
晉人の清談、宋人の理學、晉人を以て俗を遺れ、宋人を以て躬を禔む。之を合すれば雙美、之を分かてば兩傷なり。
現代語訳
晋の人の清談と、宋の人の理学。晋の人に学んで俗を忘れ、宋の人に学んで身を慎みます。この二つを合わせればどちらも美しく、分けてしまえば両方とも損なわれます。
解説
自由な精神と厳格な修養とを、組み合わせてこそ生きると説いた一則です。晋人の清談は、魏晋の名士たちが俗事を離れて老荘を論じた談論で、世俗へのとらわれを脱する力があります。宋人の理学は、朱子学に代表される修養の学で、身を正す力があります。禔躬は身を安らかに慎むことです。清談だけでは放縦に流れ、理学だけでは堅苦しくなります。両方を合わせれば、とらわれない心と正しい身の持し方がそろうのです。自由と規律は対立するものではなく、互いを補い合うものだと考えたいものです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
中庸修身清談学問調和
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『童子問』卷上童子曰く、甚だしいかな学問の大なるや。願はくは其の詳を聞かんと。曰く、宋明の儒先皆性を尽くすを以て極則と為して、学問の功の益大なることを知らず。殊に知らず、己の性は限り有りて、天下の道は窮まり無きことを。限り有るの性を以て、窮まり無きの道を尽くさんと欲す。則ち学問の功に非ざれば、得べからざるなり。此れ孔門の専ら教を貴ぶ所以なり。中庸に曰く、唯だ天下の至誠のみ、能く其の性を尽くすと為す。能く其の性を尽くせば、則ち能く人の性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、則ち以て天地の化育を賛くべし。以て天地の化育を賛くべければ、則ち以て天地と参なるべしと。所謂能く其の性を尽くすとは、吾が性の分内に就きて言ふ。其の人物の性を尽くして、天地の化育を賛くるに至りては、則ち亦た我が性を尽くすの推しと雖も、豈に徒らに我が性を尽くすのみならんや。夫れ人の我に与ける、体を異にし気を殊にして、其の疾痛病癢、皆相関らず。況んや人の物に与ける、類を異にし形を殊にす、何ぞ相干渉せん。財成輔相して天地の道に、万物をして各其の性を遂げしむと謂ふは、則ち可なり。之を我が性を尽くすと謂ひて、可ならんや。然らば則ち唯だ我が性を尽くすのみにして、学問の功に由るに非ずんば、得べからざること明らかなり。
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『弁名』中庸和衷中庸・中和と曰ふが如きは、皆徳の名なり。中庸は、甚だ高からずして常に行ふべき者を謂ふ。孝弟忠信の如き是れなり。孔子の時、礼楽興らずして、民中庸の徳有ること鮮し。故に孔門の学は、中庸を以て要と為す。諸を「遠きに行くは必ず邇きよりし、高きに登るは必ず卑きよりす」に辟ふ。所謂高明・精微・広大なる者は、皆中庸より之を導く。故に子思曰く「中庸に道る」と。中庸の徳有りと雖も、苟も道を学ばざれば、則ち以て君子と為すに足らず。故に孔子は民を以て之を言ふ。又た「小人の中庸」及び「中庸を択ぶ」の文有り。戦国の時、又た「其の材中庸に及ばず」の言有り。世俗流伝して、其の本義に非ずと雖も、亦た以て古言を見るべきのみ。庸の字の如きは、楽徳に亦た祇庸有り。之を神祇に用ふる者を祇と為し、之を民に用ふる者を庸と為す。書の所謂「庸庸祇祇」も亦た然り。民の功を庸と曰ふ。豈に易らざるの義ならんや。宋儒は辞に昧く、務めて精微の解を為し、亦た以て聖人の道に命く。誤れり。
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『洗心洞箚記』卷上・第三條諸を身に本づけ、諸を庶民に徴し、諸を三王に考へて繆らず、諸を天地に建てて悖らず、諸を鬼神に質して疑ひ無く、百世以て聖人を俟ちて惑はず。人の一言一動、必ず此の如くにして後に心性晶亮広大にして、天地日月と一般なり。若し私情に従ひ、我が意に任せて、以て言動せば、則ち胸に万巻を富むと雖も、要は書庫のみ。貴ぶに足らざるなり。
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