慎思録 / 巻之三
朱子如說大學格物致知誠意正心。則先知後行。說論語。先博文後約禮。說中庸性道敎。以戒懼愼獨爲存養省察之工夫。及說西銘。爲事天地之道。此等諸說。聖人復起。恐可不易此言也。
新字:朱子如説大学格物致知誠意正心。則先知後行。説論語。先博文後約礼。説中庸性道教。以戒懼慎独為存養省察之工夫。及説西銘。為事天地之道。此等諸説。聖人復起。恐可不易此言也。
書き下し
朱子の大学の格物致知誠意正心を説くが如きは、則ち先づ知りて後に行ふ。論語を説きて、先づ博文にして後に約礼す。中庸の性道教を説きて、戒懼慎独を以て存養省察の工夫と為す。西銘を説くに及びて、天地に事ふるの道と為す。此等の諸説は、聖人復た起るとも、恐らくは此の言を易へざるべきなり。
現代語訳
朱子が『大学』の格物・致知・誠意・正心を説いたように、まず知ってから後に行います。『論語』を説いては、まず広く文を学んでから後に礼で締めくくります。『中庸』の性・道・教を説いては、戒め慎むことと独りを慎むことを、心を保ち養うことと省みることの工夫としました。張載の「西銘」を説くに及んでは、天地に仕える道としました。これらの説は、聖人がもう一度現れても、おそらくこの言葉を改めないでしょう。
解説
朱子学に疑問を抱きつつあった晩年の益軒が、それでもなお朱子の説のうち揺るがないと考えたものを挙げた一条です。『大学』の八条目による知先行後、『論語』雍也篇の「博く文を学び、之を約するに礼を以てす」、『中庸』首章の「戒慎恐懼」と「慎独」を存養・省察の工夫とする解釈、張載「西銘」を事天の道とする理解がそれです。「聖人復た起るとも」は『孟子』公孫丑上の語法に倣っています。批判すべき点と継承すべき点を分けて師説に向き合う態度は、先人の知恵を学ぶときの手本です。
この章句が説くこと
朱子知行博文慎独存養
関連する章句
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『慎思録』巻之一致知の工夫は、一身の中より、以て万物の理に至るまで、煩擾を厭はず。講究すること多ければ、則ち自然に豁然として覚悟すること有り。是れ格物究理の工夫にして、其の中当務を以て急と為し、本末緩急の序有り。紊すべからざるなり。若し一身に備はる所の道理を舎てて省みず、泛く万物の理を究めんと欲するは、此れ儒者の学に非ず、便ち術者の事なり。須らく本より末を領し、近きより遠きに到り、序に循ひて統紀有るべし。
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『慎思録』巻之三本邦古来、忠臣孝子廉潔高行の者少なからず。澆漓の季世と雖も亦然り。文士の能く之を記する者無し。往往埋没して聞こゆる無き者、何ぞ勝げて計ふべけんや。此れ憾むべしと為すのみ。大凡格致の工夫、其の目に四有り。中庸の所謂博学審問慎思明弁、是れなり。此の四件は、其の一を闕けば則ち不可なり。而して博学を以て規模と為す。博学に非ざれば、則ち審問慎思明弁せんと欲すと雖も、然れども固陋偏狭にして、功を施す所無し。窃かに謂ふ、審問は博学に属し、明弁は慎思に属す。然らば則ち学を為すの道は、其の要学と思とに在るのみ。故に論語に曰く、学んで思はざれば則ち罔し、思うて学ばざれば則ち殆し、と。此れ学と思とを以て相対して説くに非ずや。夫れ博学審問の二者は、人に求むるなり。求むる所外に在り。慎思明弁の二者は、己に求むるなり。求むる所中に在り。故に博学審問すと雖も、然れども慎思明弁せざれば、則ち其の学ぶ所徒らに外に在り、汗漫にして自ら心に得る能はず。後の学者、博学なる者或いは之有り。然れども格物致知する能はざる者は、豈に徒らに博学を事として、慎思の功夫を闕くの故に非ずや。故に博学審問は、是れ開初発功の事なり。慎思明弁は、是れ成終収功の事なり。且つ学ぶ所氾濫すれば、則ち駁雑にして功無し。所謂誠意正心修身斉家治国平天下、此の六者は、則ち格物致知の目にして、博学の序なり。博学とは、之を学ぶのみ。是れ序に循ひて漸く進みて、本より末に往き、近きより遠きに行く者なり。然らば則ち古の所謂博学は、今の博学と異なれり。
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『慎思録』巻之四博く文を学び、之を約するに礼を以てす、と。聖人の言、本自ら致知力行の工夫を分かちて、相対して言ふ。朱子之を解して曰く、君子は学其の博からんことを欲す、故に文に於て考へざる無し。守其の要ならんことを欲す、故に其の動くや必ず礼を以てす、と。窃かに謂ふ、此の約の字は、力行の方を言ふ。其の博き者を約して礼に一にせんと欲するなり。蓋し知は博からんことを欲し、守は約ならんことを欲す。故に博約の二者は、知と行とに分属す。然れども約の字、復た専ら致知を以て言ふ者有り。孟子曰く、博く学びて詳らかに之を説くは、将に以て反りて約を説かんとするなり、と。程子曰く、博は是れ博学多識多聞多見の謂なり。約は只だ是れ人をして要を知らしむるなり、と。朱子曰く、程子格物を説きて云ふ、但だ積累多ければ、後に自ら脱然として貫通する処有り、と。積累多きは便ち是れ博なり。脱然として貫通する処有るは、便ち是れ約なり、と。又曰く、約は博の中より来たる。通貫する処は便ち是れ約なり、と。篤信窃かに謂ふ、孟子程子の約の字を説くは、亦た皆致知を以て言ふ。朱子の後説も亦た然り。蓋し博くし了りて而る後に融会貫通して之を己に得んと欲するなり。夫子の博約を説くに、知行を以て正に相対して言ふ者と同じからず。須らく先賢の約の字を説くに、此の両意有ることを知るべし。
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『慎思録』巻之五博と約とは、知行の工夫にして、正に相対す。聖人の人に教ふる、只此の二者有るのみ。博は古今万般雑細の事物を博く記するに非ざるなり。一身の内より、万物の理に至るまで、之を講究すること多くして、広く天人の道を究め、天下事物の理、融会貫通して、我に自得するの謂なり。蓋し融会して之を貫通するに非ずんば、則ち博聞広見すと雖も、自得すること能はず。之を自得すること能はざれば、則ち以て貴しと為すに足らず。約は是れ博学して自得する所の理を以て、之を一身に約して、実に之を践み行ふなり。苟も此くの如くならずんば、則ち其の之を約する者は、隘陋のみ。博文に非ずんば、則ち之を約すること能はず。約礼に非ずんば、則ち博学する所の者は徒為のみ。無用の学と為すべし。大凡学は有用を以て貴しと為すべきのみ。
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『慎思録』巻之三古人学の字を説くに、知行を兼ねて言ふ者有り。孔子曰く、丘の学を好むに如かざるなり、と。曰く、我学んで厭はず、と。曰く、顔回なる者有り、学を好む、と。の類、是れなり。其の余は往往致知の一辺を以て言ふ者居多なり。論語に、子曰く、学んで思はざれば則ち罔し、と。曰く、仁を好みて学を好まざれば、其の蔽や愚、と。曰く、学んで之を知る者は次なり、と。曰く、多く学んで之を識る、と。曰く、終日食はず、終夜寝ねず、以て思ふ、益無し、学ぶに如かざるなり、と。子夏曰く、博く学んで篤く志す、と。曰く、未だ学ばずと曰ふと雖も、吾は必ず之を学びたりと謂はん、と。大学に曰く、切するが如く磋するが如しとは、学を道ふなり、と。中庸に曰く、博く学び審らかに問ふ、と。孟子曰く、博く学んで詳らかに説く、と。易に曰く、学んで以て之を聚む、の類は、皆講習討論の事にして、致知を以て言ふ。古人の学は、固より行を以て重しと為す。然れども先づ之を知るに非ざれば、則ち行ふ能はず。故に古人の能く知る者は、必ず能く之を行ふ。明の陳剰夫曰く、人此の学に於て、若し真に之を知らば、則ち行其の中に在り、と。篤信謂ふ、古人学を説くに、知の一辺を以て言ふ者多し。又行を以て言ふ者有り。宜しく処に随ひて解すべし。
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