慎思録 / 巻之三
對不信道之人。勿謾說道理。譬諸飮食。未欲飮食。而强飮食之。則豈啻厭惡之而已哉。反爲病患也多矣。正蒙云。知死之不亡者。可與言性。困知記云。有此物即有此理。氣散而死。終歸於無。無此物即無此理。安得死而不亡者。篤信謂。宋儒以性爲理曰。爲氣有死生理無死生。是與異學所謂死而不亡者壽同意。羅整菴此說。可以破異學之說。又可以解學者之惑。張子正蒙之中。猶有可疑如此者。何也。豈偏僻之爲害也。非雖賢者難免乎。
新字:対不信道之人。勿謾説道理。譬諸飲食。未欲飲食。而強飲食之。則豈啻厭悪之而已哉。反為病患也多矣。正蒙云。知死之不亡者。可与言性。困知記云。有此物即有此理。気散而死。終帰於無。無此物即無此理。安得死而不亡者。篤信謂。宋儒以性為理曰。為気有死生理無死生。是与異学所謂死而不亡者寿同意。羅整菴此説。可以破異学之説。又可以解学者之惑。張子正蒙之中。猶有可疑如此者。何也。豈偏僻之為害也。非雖賢者難免乎。
書き下し
道を信ぜざるの人に対しては、謾りに道理を説くこと勿かれ。諸を飲食に譬ふ。未だ飲食を欲せざるに、強ひて之を飲食せしむれば、則ち豈に啻に之を厭悪するのみならんや。反って病患と為ること多し。正蒙に云ふ、死の亡びざるを知る者は、与に性を言ふべし、と。困知記に云ふ、此の物有れば即ち此の理有り。気散じて死すれば、終に無に帰す。此の物無ければ即ち此の理無し。安んぞ死して亡びざる者を得ん、と。篤信謂ふ、宋儒性を以て理と為して曰く、気は死生有り理は死生無し、と為す。是れ異学の所謂死して亡びざる者は寿なりと同意なり。羅整庵の此の説、以て異学の説を破るべく、又以て学者の惑を解くべし。張子の正蒙の中に、猶ほ疑ふべきこと此の如き者有るは、何ぞや。豈に偏僻の害を為すや、賢者と雖も免れ難きに非ずや。
現代語訳
道を信じない人に対して、むやみに道理を説いてはなりません。飲食にたとえれば、まだ飲み食いしたくないのに無理に飲み食いさせれば、嫌がるだけではすみません。かえって病気になることが多いのです。張載の『正蒙』に「死んでも亡びないものがあると知る者とは、ともに性を語ることができる」とあります。羅欽順の『困知記』には「この物があればこの理がある。気が散じて死ねば、ついに無に帰る。この物がなければこの理もない。どうして死んで亡びないものがあろうか」とあります。私(篤信)が思うに、宋の儒者は性を理とし、「気には生死があるが、理には生死がない」としました。これは異学(老子)のいう「死んで亡びない者が長寿である」と同じ意味です。羅欽順(整庵)のこの説は、異学の説を破ることができ、また学ぶ者の迷いを解くことができます。張載の『正蒙』の中にさえ、このように疑わしいものがあるのはなぜでしょうか。偏りの害は賢者でも免れがたいということではないでしょうか。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之五張子の道統の伝に与るや、程子に次ぐ。西銘の如き、前人の未だ発せざる所にして、大いに吾が道に功有り。其の余の道理を発明すること亦尠からず。然り而して其の言に曰く、形潰えて原に反る、と。又曰く、万物散じて太虚と為らざること能はず、と。此の言、程朱の説と大いに相乖戻す。嗚呼天人の気の如き、聚散消息は、是れ生民の本にして、大小大の事なり。其の説の同じからざる者は、微細の差誤に非ず。凡そ先儒各見る所有り。其の説同じからざること此くの如しと雖も、其の道の同じきと為すを害せず。其の余の経説も亦然り。今の人、朱子の説と其の訓詁小差有れば、則ち誹りて以て異学と為す。其の拘陋甚だし。
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『慎思録』巻之四或ひと曰く、大易は理気を分かたず、唯だ一陰一陽、之を道と謂ふ、と言ふ。又曰く、天の道を立つ、曰く陰と陽と、と。聖人は理と気との分有ることを知らざるに非ず。然れども渾説して分かたざる者は、恐らくは深意有らん。子川上に在りて曰く、逝く者は此の如きか、昼夜を舎かず、と。程子之を説きて曰く、此れ道体なり。天運りて已まず、日往けば則ち月来たり、寒往けば則ち暑来たり、水流れて息まず、物生じて窮まらず、皆道と体を為し、昼夜に運りて未だ嘗て已まず、と。是れ皆渾融の説なり。何等の分明ぞ。宋儒動もすれば理気を分かちて二物と為す。恐らくは陋と為すべきか、と。予之に答へて曰く、夫子及び程伯子の渾融して説く者は、固より恐らくは深意有らん。然れども伊川朱子の分開して説く者も、亦た時に随ひ宜に順ふ。是れ教へを立つるの道、義を以て起こる者にして、事勢の然らしむるなり。蓋し後世斯の学明らかならず、理の万物の根柢為ることを知らず。故に理と気とを掲げ出し、分析して説く。苟も此の如くならざれば、則ち理の理為り、気の気為ること、是れ何物為るかを知らず。故に已むを得ずして之が為に分開して説くのみ。且つ夫れ前聖の未だ言ひ到らざる所を、後世漸漸に詳説する者多し。
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『呻吟語』内篇・談道・撒數を除き了らば總數沒し一門人予に向かひて數四無極・太極及び理氣の同異、性命の精粗、性善の是否を窮問す。予曰く、「此等の語は、予も亦た先儒の成說及び一己の謬見を剿りて以て相發明する能ふ。然れども汝の今日の急務に非ず。假若し性命を了悟し、天人に洞達するも、也た只だ性理の書上に『某氏曰く』の一段の言語を添へ、講學衙門中に一宗の卷案を多くするのみ。後世窮理の人、彼を信じ此を駁し、此に服し彼を辟く。百世の後に汗牛充棟たるも、都て是れ這樁の話說なり。知らず、國家の存亡、萬姓の生死、身心の邪正に於いて、見在濟ふを得るや否や。我に只だ個の粗き法子有り、汝は只だ存心制行・處事接物・齊家治國平天下を把りて、大本小節都て事事心下に信じ得過ぎ了りて、再び這の話を講ずるも遲からず」と。曰く、「理氣・性命は、終身談ず可からざるか」と。曰く、「這れ便ち是れ理氣・性命の顯設處なり。撒數を除き了らば總數沒し」と。
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『慎思録』巻之三世に処するは、寧ろ拙に傷るるも、巧に傷るること莫かれ。礼を為すは、寧ろ倹に傷るるも、奢に傷るること莫かれ。学を為すは、寧ろ隘に傷るるも、雑に傷るること莫かれ。世儒は摂養保生の者を以て、術者の生を貪るの事と為し、只冬裘夏葛飢食渇飲を以て、養生の道は此に止まると為す。然り而して死生も亦大なり。吾が身の天地父母に禀くる所の者は、保重せざるべからず。然らば則ち保養守身の術も、亦学ばざるべからず。何ぞ術者の事と為して之を廃すべけんや。大凡人事には皆術有り。独り養生のみ、豈に術無かるべけんや。
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