慎思録 / 巻之四
或曰。大易不分理氣。唯言一陰一陽。之謂道。又曰。立天之道。曰陰與陽。非聖人不知有理與氣之分。然渾說而不分者。恐有深意。子在川上曰。逝者如此夫。不舍晝夜。程子說之曰。此道體也。天運而不巳。日往則月來。寒往則暑來。水流而不息。物生而不窮。皆與道爲體。運乎晝夜。未嘗巳也。是皆渾融說。何等分明。宋儒動分理氣爲二物。恐可爲陋乎。予答之曰。夫子及程伯子渾融而說者。固恐有深意。然伊川朱子之分開說者。亦隨時順宜。是立敎之道以義起者。事勢之令然也。葢後世斯學不明。不知理爲萬物之根柢。故揭出理與氣。分析而說。苟不如此。則不知理之爲理。氣之爲氣。是爲何物。故不得巳。而爲之分開而說而已矣。且夫前聖所未言到。後世漸漸詳說者多矣。
新字:或曰。大易不分理気。唯言一陰一陽。之謂道。又曰。立天之道。曰陰与陽。非聖人不知有理与気之分。然渾説而不分者。恐有深意。子在川上曰。逝者如此夫。不舎昼夜。程子説之曰。此道体也。天運而不巳。日往則月来。寒往則暑来。水流而不息。物生而不窮。皆与道為体。運乎昼夜。未嘗巳也。是皆渾融説。何等分明。宋儒動分理気為二物。恐可為陋乎。予答之曰。夫子及程伯子渾融而説者。固恐有深意。然伊川朱子之分開説者。亦随時順宜。是立教之道以義起者。事勢之令然也。葢後世斯学不明。不知理為万物之根柢。故掲出理与気。分析而説。苟不如此。則不知理之為理。気之為気。是為何物。故不得巳。而為之分開而説而已矣。且夫前聖所未言到。後世漸漸詳説者多矣。
書き下し
或ひと曰く、大易は理気を分かたず、唯だ一陰一陽、之を道と謂ふ、と言ふ。又曰く、天の道を立つ、曰く陰と陽と、と。聖人は理と気との分有ることを知らざるに非ず。然れども渾説して分かたざる者は、恐らくは深意有らん。子川上に在りて曰く、逝く者は此の如きか、昼夜を舎かず、と。程子之を説きて曰く、此れ道体なり。天運りて已まず、日往けば則ち月来たり、寒往けば則ち暑来たり、水流れて息まず、物生じて窮まらず、皆道と体を為し、昼夜に運りて未だ嘗て已まず、と。是れ皆渾融の説なり。何等の分明ぞ。宋儒動もすれば理気を分かちて二物と為す。恐らくは陋と為すべきか、と。予之に答へて曰く、夫子及び程伯子の渾融して説く者は、固より恐らくは深意有らん。然れども伊川朱子の分開して説く者も、亦た時に随ひ宜に順ふ。是れ教へを立つるの道、義を以て起こる者にして、事勢の然らしむるなり。蓋し後世斯の学明らかならず、理の万物の根柢為ることを知らず。故に理と気とを掲げ出し、分析して説く。苟も此の如くならざれば、則ち理の理為り、気の気為ること、是れ何物為るかを知らず。故に已むを得ずして之が為に分開して説くのみ。且つ夫れ前聖の未だ言ひ到らざる所を、後世漸漸に詳説する者多し。
現代語訳
ある人が言いました。「『易』は理と気を分けず、ただ『一陰一陽、これを道という』と言い、また『天の道を立てて陰と陽という』と言います。聖人が理と気の区別を知らなかったわけではありません。それでも一つにまとめて説いて分けなかったのには、深い意味があるのでしょう。孔子は川のほとりで『過ぎゆくものはこのようであろうか、昼も夜も止まらない』と言い、程子はそれを説いて『これは道の本体である。天はめぐって止まず、日が去れば月が来て、寒さが去れば暑さが来る。水は流れて休まず、物は生じて尽きない。みな道と一体となり、昼夜にめぐって止んだことがない』と言いました。これはみな溶け合わせた説き方で、なんと明快なことでしょう。宋の儒者はともすれば理と気を分けて二つの物にしますが、それは浅はかなのではありませんか」。私は答えて言いました。孔子や程明道が溶け合わせて説いたのには、もちろん深い意味があるでしょう。しかし程伊川や朱子が分けて説いたのも、時に従い状況にかなったものです。これは教えを立てる方法が道義にもとづいて生まれたもので、時の勢いがそうさせたのです。後世にはこの学問が明らかでなくなり、理が万物の根本であることを知らなくなりました。だから理と気を掲げ出し、分けて説いたのです。そうしなければ、理が理であり気が気であることが、何であるかわからなかったのです。やむを得ず分けて説いたにすぎません。そもそも前の聖人が言い及ばなかったことを、後世になって少しずつ詳しく説いたものは多いのです。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之五天地の間、道に非ざる無し。鳶の飛び、魚の躍る者は、乃ち天機の発動する所、道の費なり。此れ見るべし。鳶をして飛ばしめ、魚をして躍らしむる者は、鬼神の為す所、是れ二気の良能、道の隠なり。此れ見るべからず。合せて之を言へば、則ち二気の流行する所、皆是れ天理の在る所にして、道に非ざる無し。
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『慎思録』巻之四道と理とは一なり。天人の道、二有るに非ずと雖も、然れども其の流行を以て之を道と謂ふ者は、天の道なり。其の性に率ふを以て之を道と謂ふ者は、人の道なり。其の条貫を以て之を理と謂ふ者は、天人に通じて言ふ。易に窮理と謂ひ、孟子に理義と謂ひ、礼記に天理と謂ふが如き、是れなり。其の気と相対して形象無き者を以て、故に宋儒専ら理の字を説きて、気と対了す。近世異学の輩出でて、以謂へらく、只だ之を道と謂ふべし、之を理と謂ふべからず、と。此れ亦た固陋の甚だしき、時変に通ぜざる者なり。豈に古来聖賢の説、時に順ひて宜しきを異にすることを知らんや。堯舜の盛世の如きは、未だ幾許の議論有らず。唯だ一の中の字を言ひて足る。後世に至りて時を歴ること愈久しくして、議論愈詳らかなり。宋儒に到りて専ら理の字を説くも、亦た何の害か之有らん。
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『慎思録』巻之四天地の間、只だ一箇の道有るのみ。更に何物か有らんや。或ひと曰く、陰陽は是れ道と相対す。何ぞ只だ一箇の道有るのみと言ふや、と。曰く、陰陽も亦た是れ道中に備はる所の物なり。道に非ざるは莫し。道とは、天地の主宰なり、統ぶる所を以て言ふ。陰陽の綱紀なり、経緯錯綜を以て言ふ。万物の根柢なり、生ずる所を以て言ふ。人身の徳行なり、禀受すると率循するとを以て言ふ。天地とは、道の郛廓なり、載する所を以て言ふ。陰陽とは、道の権力なり、運用を以て言ふ。四時とは、道の流行なり、転化を以て言ふ。万物とは、道の形体なり、寓する所を以て言ふ。道なる者は、天地を主宰し、陰陽を総摂し、万物を化生する所以の者なり。其の流行を以て、之を道と謂ふ。其の気を主りて条貫有るを以て、又之を理と謂ふ。其の実は道と理と一なり。其の指す所有るを以て名を異にするのみ。此の理は陰陽の主と為りて相離れず。理の気有るは、猶ほ人の四体有るがごとし。故に理を言へば、則ち気其の中に在りて、離合すべからず。蓋し気無きの理無く、又理無きの気無し。
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『慎思録』巻之四理と気とは一にして二、二にして一なり。同じくして異なりと謂ふべし。故に善く理を観る者は、陰陽に就きて之を言ひて、其の理を失はず。理を以て主と為すに由るなり。気は是れ理の運用、理は是れ気の本主なり。易に曰く、一陰一陽、之を道と謂ふ、と。又曰く、天の道を立つ、曰く陰と陽と、と。是れ気に就きて道を見るなり。道と陰陽とは決して是れ二物に非ざることを見るべし。混同して間無きなり。其の混同して間無きの中に、至理有りて之を主宰す。如し或いは陰陽を離れて道を言ひ、或いは陰陽を主として道を言ふ者は、道を知る者に非ざるなり。陰陽を離れて道を言ふ者は、風を係ぎ影を捕ふるが如し。此れ異学空虚の説なり。其の言は妄誕為り。陰陽を主として道を言ふ者は、糟粕を甘しとして醍醐を舎つるが如し。是れ方技術数の説なり。其の言は鄙陋為り。皆此れ道の至理にして陰陽の主為ることを知らざるなり。苟も此の意を理会せば、則ち陰陽を合して道と為すも、固より可なり。陰陽を以て器と為すも、亦た可なり。故に明道曰く、器も亦た道、道も亦た器、と。苟も陰陽を離れて道と為さば則ち不可なり。蓋し理無きの気無く、気無きの理無きに由るなり。
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『慎思録』巻之四故に天地の覆載、陰陽の闔闢、四時の流行、万物の生育、皆是れ道の為す所なり。陰陽之が経緯錯綜を為すと雖も、亦た是れ道中の事のみ。蓋し道有りて陰陽立ち、陰陽有りて道行はる。道無ければ則ち立たず、陰陽無ければ則ち行はれず。故に道と陰陽とは、一にして二、二にして一なり。須らく是れ心に会して之を自得すべし。言語の能く形容する所に非ざるなり。先正以為へらく、理気は決して是れ二物なり、と。此れ後学の暁り易からんことを欲するなり。之を要するに理気は分析すべからず。明道曰く、道も亦た器、器も亦た道、と。夫れ道器は誠に是れ二物なり。然り而して明道渾融して説く。其の義自ら分明なり。況や理気は本是れ分析すべからず。蓋し理は必ず気有り、気は必ず理有り。離合を説くべからず、先後を論ずべからず。其の混同を以て之を一物と謂ふも、固より可なり。主宰運用の異有るを以て之を二物と謂ふも、亦た可なり。易に曰く、一陰一陽、之を道と謂ふ、と。又曰く、天の道を立つ、曰く陰と陽と、と。皆是れ陰陽に就きて言を為す。故に陰陽を舎つれば、則ち道の言ふべき無し。道は陰陽に因りて見る。然れども理を廃して陰陽を説く者は、
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『慎思録』巻之四易に曰く、形よりして上なる者、之を道と謂ひ、形よりして下なる者、之を器と謂ふ、と。程子朱子皆謂ふ、陰陽も亦た形而下なる者なり、と。是れ理と気と相対するを以て之を謂ふなり。蓋し理気は分かつべからずと雖も、然れども分かたずして之を言へば、則ち其の別明らかならず。故に程朱の言此の如し。其の実、器なる者は形有るの物なり。此れを形而下なる者と為す。陰陽は只だ象有りて形無し。形而下なる者と謂ふべからざるなり。明道曰く、器も亦た道、道も亦た器、と。蓋し道器相離れず。然れども程朱は理の万物に主為ることを説かんと欲す。故に陰陽を以て形而下なる者と為すのみ。蓋し道を主と為し、陰陽を次と為す。其の言此の如くならざれば、則ち道明らかならざるのみ。是れ已むを得ざるの説なり。