慎思録 / 巻之三
名者公器也。是造化之所吝。不可專得。苟徼當時之名者。禍必至矣。故曰。避禍不如避名。然孝經以揚名於後世顯父母爲孝之終。且古人曰。不取當時之名。而得後世之名。乃眞名也。蓋人有愛憎之私。是以方其生時。世之所毀譽。不中其實者多矣。古語曰。公論百年而後定矣。何也。至沒後。則以無愛憎之私也。故當時之毀譽者。不足以爲公論。孟子曰。有不虞之譽。有求全之毀。亦此意耳。是以得當時之名者。不足爲貴。而得後世之名者。爲可貴而已。然以後名爲志者。是亦徼名也。非君子之所貴。君子唯勉其在己者而已。當時之名。固不可求。而後世之名。亦豈可有心求之乎。張翰曰。使吾有身後之名。不如即時一杯酒。是輕身之言。固雖與汲汲于後名者不同。然苟不愼名節。放曠而不檢身。則其害亦爲不少。不可爲達者之言也。
新字:名者公器也。是造化之所吝。不可専得。苟徼当時之名者。禍必至矣。故曰。避禍不如避名。然孝経以揚名於後世顕父母為孝之終。且古人曰。不取当時之名。而得後世之名。乃真名也。蓋人有愛憎之私。是以方其生時。世之所毀誉。不中其実者多矣。古語曰。公論百年而後定矣。何也。至没後。則以無愛憎之私也。故当時之毀誉者。不足以為公論。孟子曰。有不虞之誉。有求全之毀。亦此意耳。是以得当時之名者。不足為貴。而得後世之名者。為可貴而已。然以後名為志者。是亦徼名也。非君子之所貴。君子唯勉其在己者而已。当時之名。固不可求。而後世之名。亦豈可有心求之乎。張翰曰。使吾有身後之名。不如即時一杯酒。是軽身之言。固雖与汲汲于後名者不同。然苟不慎名節。放曠而不検身。則其害亦為不少。不可為達者之言也。
書き下し
名は公器なり。是れ造化の吝む所にして、専ら得べからず。苟も当時の名を徼むる者は、禍必ず至る。故に曰く、禍を避くるは名を避くるに如かず、と。然れども孝経は名を後世に揚げて父母を顕すを以て孝の終と為す。且つ古人曰く、当時の名を取らずして、後世の名を得るは、乃ち真の名なり、と。蓋し人に愛憎の私有り。是を以て其の生時に方りては、世の毀誉する所、其の実に中らざる者多し。古語に曰く、公論は百年にして後に定まる、と。何ぞや。没後に至れば、則ち愛憎の私無きを以てなり。故に当時の毀誉は、以て公論と為すに足らず。孟子曰く、虞らざるの誉有り、全きを求むるの毀有り、と。亦此の意のみ。是を以て当時の名を得る者は、貴しと為すに足らずして、後世の名を得る者は、貴ぶべしと為すのみ。然れども後名を以て志と為す者は、是れ亦名を徼むるなり。君子の貴ぶ所に非ず。君子は唯其の己に在る者を勉むるのみ。当時の名は、固より求むべからず。而して後世の名も、亦豈に心有りて之を求むべけんや。張翰曰く、吾をして身後の名有らしむるは、即時一杯の酒に如かず、と。是れ身を軽んずるの言なり。固より後名に汲汲たる者と同じからずと雖も、然れども苟も名節を慎まず、放曠にして身を検せずんば、則ち其の害も亦少なからずと為す。達者の言と為すべからざるなり。
現代語訳
名声は天下の公の器です。天地造化が惜しむもので、一人占めすることはできません。当時の名声を求める者には、必ず禍が来ます。だから「禍を避けるには名を避けるのが一番だ」と言われます。しかし『孝経』は、名を後世に揚げて父母を世に顕すことを孝の終わりとしています。また昔の人は「当時の名を取らず、後世の名を得るのが真の名である」と言いました。思うに、人には愛憎の私情があります。そのため生きている時には、世間の毀誉が実際に当たらないことが多いのです。古語に「公の論は百年たってはじめて定まる」とあります。なぜなら、死後になれば愛憎の私情がなくなるからです。ですから当時の毀誉は公論とするに足りません。孟子が「思いがけない誉れがあり、完全を求めてのそしりがある」と言ったのも、この意味です。それで当時の名を得ることは貴ぶに足りず、後世の名を得ることこそ貴ぶべきなのです。しかし後世の名を志とするのも、やはり名を求めることで、君子の貴ぶところではありません。君子はただ自分にあるものに努めるだけです。当時の名はもちろん求めてはならず、後世の名もどうして意図して求めてよいでしょうか。張翰は「死後の名声があるより、今すぐの一杯の酒の方がよい」と言いました。これは身を軽んじる言葉です。後世の名にあくせくする者とはもちろん違いますが、名誉と節操を慎まず、気ままで身を律しないなら、その害も少なくありません。達人の言葉とすることはできません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之三人の世に在るや、必ず愛憎の私有り。是を以て褒誉実に過ぐる者有り、猜忌寃を為す者有り。人の毀誉の、往往理に当たらざる者多き所以なり。毀誉は妄りに信ずべからず。古人曰く、公論は百年にして後に定まる、と。又曰く、之を要するに死する日にして、後是非乃ち定まる、と。豈に然らざらんや。己の人を毀誉するも亦然り。夫れ人は誠に知り易からず。故に人を知ることは、帝堯も之を難しとす。况んや庸人をや。苟も一事一暫の見聞する所に因りて、軽々しく人を毀誉せば、往往其の実に中らずして謬らざる者鮮し。是れ不知の大なる者にして、恥づべきの甚しきなり。人豈に遽かに毀誉を為すべけんや。
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『慎思録』巻之三衆人其の小才有るを恃みて、人に見知せられんことを求む。是を以て其の心曲急迫にして、其の躁進に堪へず。是れ徒に名利に僥倖するを知りて、天命に安んずるを知らず。孟子説く、人之を知るも亦囂囂たり、人知らざるも亦囂囂たり、と。以て人に説くの法と為すべし。夫れ才不才は己に在り、知ると知らざるとは人に在り。己に於て加損無し。何ぞ中に動くことか之有らん。今や人之を知れば、則ち意気揚揚として、喜色外に顕はる。人知らざれば、則ち心曲戚戚として、憂色面に発す。其の器識褊小なりと謂ふべきなり。
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『慎思録』巻之四自ら衒ひ自ら矜る者は、名を貪るの事にして、又名を喪ふの基なり。実を務め自ら謙る者は、名を忘るるの事にして、又名を得るの基なり。蓋し実を務むる者は、或いは一時の美誉を速やかに得ずと雖も、久しくして自ら著る。譬へば木を植うるに根本有りて、枝葉自ら生ずるが如し。外を務むる者は、或いは忽ち一旦の浮名を得と雖も、久しくして自ら息む。譬へば潢潦の根源無くして漸く涸るるが如し。故に名を貪る者は却つて名を喪ふ。愚の甚だしきなり。
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『慎思録』巻之五学者は当に道学の実を勤むべし。好んで道学の名を立つべからず。名其の実に称はずして、一時の虚誉を掠め取るは、恥づべきの甚だしきなり。且つ自負して以て経術に専一なりと為すと雖も、往往訓詁の習ひに止まりて、未だ以て致知の学と為すに足らず。此を以て自ら矜高を為して、人を嫚罵し、顔を抗げて好んで人の師と為る。方に其の量を知らずと謂ふべし。身後に至れば、則ち自ら公論有りて、其の良拙と真偽とを掩ふこと能はず。古語に曰く、之を要するに死の日の後、是非乃ち定まる、と。信なるかな是の言や。恥づべきの甚だしきなり。
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『慎思録』巻之六聖賢と残賊と、其の人既に没すと雖も、善悪の芳穢、千載に流れて休まず。人の一身は、豈に生前百年血肉の躯に止まらんや。抑々身後千歳毀誉する所の美悪も、亦是れ其の身分内の事と為すべし。然らば則ち何ぞ聖愚同じく腐りて余り無しと謂はんや。古人の詩に曰く、秦檜の悪名は千古臭く、岳王の忠節は万年芳しと。謝枋得の詩に云ふ、人生の芳穢は千歳有り、世上の栄枯は百年無しと。此れ皆身後の汚名の恥づべきを言ふなり。若し身後の汚名を恥ぢずんば、則ち大節に臨みて苟免し、生を偸み義に背き、何の至らざることか之有らん。此くの如くにして身を没する者は、禽獣と何ぞ異ならんや。古人の詩に曰く、孔丘も盗跖も倶に塵埃と。是れ豈に名教に害有るの言に非ずや。
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『慎思録』巻之一誉むる者は或いは其の実に過ぎ、毀る者は或いは其の真を損ず。此れ衆人の毀誉する所の常情なり。況んや小人奴婢の毀誉は、或いは私昵旧恩有るに因り、或いは私怨宿憝有るに因る。概ね皆私意より発する所にして、以て信と為すに足らざるのみ。大率毀誉を聞きて、精察して迷眩せざる者は、明と謂ふべきなり。