慎思録 / 巻之三
朱子曰。如孝弟忠信人倫日用間事。播爲樂章。使人歌之。倣周禮讀法。偏示鄕村聚落。亦可代今粉壁所書條禁。篤信謂。今世苟有人。而以國字作樂章。頗令古雅而易諷誦。說孝弟忠信人倫日用之道。混之以古人之嘉言善行。而爲歌謠。敎人令詠歌。庶幾乎有補世敎。今之俗謠之中。有音聲頗不淫哇者。然而如其歌章與曲節。不可爲敎。夫樂者。可以移風易俗。令人感化。善惡皆然。然則其聲音歌章。不可不正。
新字:朱子曰。如孝弟忠信人倫日用間事。播為楽章。使人歌之。倣周礼読法。偏示郷村聚落。亦可代今粉壁所書条禁。篤信謂。今世苟有人。而以国字作楽章。頗令古雅而易諷誦。説孝弟忠信人倫日用之道。混之以古人之嘉言善行。而為歌謡。教人令詠歌。庶幾乎有補世教。今之俗謡之中。有音声頗不淫哇者。然而如其歌章与曲節。不可為教。夫楽者。可以移風易俗。令人感化。善悪皆然。然則其声音歌章。不可不正。
書き下し
朱子曰く、孝弟忠信人倫日用の間の事の如きは、播きて楽章と為し、人をして之を歌はしめ、周礼の読法に倣ひて、偏く郷村聚落に示さば、亦今の粉壁に書する所の条禁に代ふべし、と。篤信謂ふ、今の世苟も人有りて、国字を以て楽章を作り、頗る古雅にして諷誦し易からしめ、孝弟忠信人倫日用の道を説き、之に混ずるに古人の嘉言善行を以てして、歌謡と為し、人に教へて詠歌せしめば、世教に補有るに庶幾からん。今の俗謡の中、音声頗る淫哇ならざる者有り。然れども其の歌章と曲節との如きは、教と為すべからず。夫れ楽は、以て風を移し俗を易へ、人をして感化せしむべし。善悪皆然り。然らば則ち其の声音歌章は、正さざるべからず。
現代語訳
朱子は「孝・弟・忠・信など人倫と日常の事を、広めて楽章に作り、人に歌わせ、『周礼』の法を読み聞かせるやり方にならって、村々に広く示せば、今の白壁に書かれた禁令の代わりになるだろう」と言いました。私(篤信)が思うに、今の世にもし誰かが仮名で歌を作り、上品で口ずさみやすくし、孝・弟・忠・信など人倫と日常の道を説き、そこに昔の人のよい言葉やよい行いを交えて歌謡とし、人に教えて歌わせるなら、世の教化に役立つでしょう。今の流行り歌の中にも、節回しがあまりみだらでないものはあります。しかしその歌詞と節は、教えとするには足りません。そもそも音楽は、風俗を移し変え、人を感化させることができます。善の方にも悪の方にもそうです。ですから声や歌詞は正さなければなりません。
解説
この章句が説くこと
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