慎思録 / 巻之三
或曰。本朝於皇后。不稱崩。只曰薨。如日本記書垂仁帝三年十二月皇后日葉酢媛命薨。敏達帝四年皇后廣姫薨之類。是也。篤信按。皇后稱崩。昭昭乎中華諸史。且續日本紀書廢帝天平寶字四年六月皇大后崩。扶桑畧記亦書皇后崩者多矣。江家次第二十一卷目錄書后崩。東鑑三十三卷書歷仁二年去年宜秋門院崩。是皆可爲得之矣。日本紀稱皇后薨者。未知何據。或是偶然之誤歟。
新字:或曰。本朝於皇后。不称崩。只曰薨。如日本記書垂仁帝三年十二月皇后日葉酢媛命薨。敏達帝四年皇后広姫薨之類。是也。篤信按。皇后称崩。昭昭乎中華諸史。且続日本紀書廃帝天平宝字四年六月皇大后崩。扶桑略記亦書皇后崩者多矣。江家次第二十一巻目録書后崩。東鑑三十三巻書歴仁二年去年宜秋門院崩。是皆可為得之矣。日本紀称皇后薨者。未知何拠。或是偶然之誤歟。
書き下し
或ひと曰く、本朝は皇后に於て、崩と称せず、只薨と曰ふ。日本記に垂仁帝三年十二月皇后日葉酢媛命薨ず、敏達帝四年皇后広姫薨ずと書するの類の如き、是れなり、と。篤信按ずるに、皇后崩と称するは、中華の諸史に昭昭たり。且つ続日本紀に廃帝天平宝字四年六月皇大后崩ずと書し、扶桑略記も亦皇后崩ずと書する者多し。江家次第二十一巻の目録に后崩と書し、東鑑三十三巻に暦仁二年去年宜秋門院崩ずと書す。是れ皆之を得たりと為すべし。日本紀に皇后薨ずと称する者は、未だ何に拠るかを知らず。或いは是れ偶然の誤か。
現代語訳
ある人が言いました。「わが国では皇后について崩とは言わず、ただ薨と言う。『日本書紀』に垂仁天皇三年十二月に皇后日葉酢媛命が薨じた、敏達天皇四年に皇后広姫が薨じたと書くようなのがそれだ」。私(篤信)が考えるに、皇后に崩と言うことは中国の諸史書にはっきりしています。また『続日本紀』には廃帝(淳仁天皇)の天平宝字四年六月に皇太后が崩じたと書き、『扶桑略記』にも皇后が崩じたと書くものが多くあります。『江家次第』二十一巻の目録には后崩と書き、『吾妻鏡』三十三巻には暦仁二年に去年宜秋門院が崩じたと書いています。これらはみな正しいといえます。『日本書紀』が皇后について薨と言うのは、何に拠ったのか分かりません。あるいは偶然の誤りでしょうか。
解説
この章句が説くこと
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