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慎思録 / 巻之三

闕里誌曰。程頤論。人家祖宗影。有一毫不類。則非其人。彼親見其人而貌之。有毫髮不肖似。尙非其人。况工人隨意信手。而爲之者哉。

新字:闕里誌曰。程頤論。人家祖宗影。有一毫不類。則非其人。彼親見其人而貌之。有毫髪不肖似。尚非其人。況工人随意信手。而為之者哉。

書き下し

闕里誌に曰く、程頤論ずらく、人家の祖宗の影、一毫も類せざる有れば、則ち其の人に非ず、と。彼親しく其の人を見て之を貌し、毫髪も肖似せざる有らば、尚ほ其の人に非ず。况んや工人意に随ひ手に信せて、之を為る者をや。

現代語訳

『闕里誌』にこうあります。程頤は「家々の祖先の肖像画は、わずかでも似ていないところがあれば、その人ではない」と論じました。実際にその人を見て描いても、髪の毛一本ほども似ていないところがあれば、やはりその人ではありません。まして職人が思うままに手まかせに描いたものならなおさらです。

解説

前条に続き、像で祀ることへの疑問を程頤(伊川)の議論で補った一条です。程頤は、祖先の肖像画はわずかでも似ていなければ別人を祀ることになるとして、影(肖像)ではなく木主で祀ることを主張しました。この議論は朱子の『家礼』にも受け継がれています。益軒は、直接見て描いてさえ似ないのに、職人が想像で作った聖人像を拝むのは筋が通らないと述べます。形にこだわるより心を込めることが祭祀の本質だという考えは、追悼や記念のあり方を考えるときにも示唆を与えてくれます。

この章句が説くこと

祭祀祖先肖像程頤

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