慎思録 / 巻之三
問。古今有人鬼爲祟者。何哉。答曰。葢人有氣魄强壯者。歘然枉死。其氣未能遽消散盡。其魂猶能爲鬼。而作淫厲者。亦間有之。左傳昭公七年載。伯有爲厲。殺駟帶。又殺公孫段。國人懼。子產立伯有之子公孫洩及良止。使有宗廟。子大叔問其故。子產曰。鬼有所歸。乃不爲厲。吾爲之歸也。又曰。匹夫匹婦强死。其魂魄猶能憑依於人。以爲淫厲。能爲鬼。不亦宜乎。且周春秋曰。周宣王殺杜伯而無辜。後二年。日中杜伯起於道。射宣王而死。篤信曰。是火滅煙殘之理。不可謂無此事。倭漢古今徃徃有之。而久則滅熄者。其厲氣之所殘。漸消滅而盡耳。子產鬼有所歸乃不爲厲之說。有旨哉。
新字:問。古今有人鬼為祟者。何哉。答曰。葢人有気魄強壮者。歘然枉死。其気未能遽消散尽。其魂猶能為鬼。而作淫厲者。亦間有之。左伝昭公七年載。伯有為厲。殺駟帯。又殺公孫段。国人懼。子産立伯有之子公孫洩及良止。使有宗廟。子大叔問其故。子産曰。鬼有所帰。乃不為厲。吾為之帰也。又曰。匹夫匹婦強死。其魂魄猶能憑依於人。以為淫厲。能為鬼。不亦宜乎。且周春秋曰。周宣王殺杜伯而無辜。後二年。日中杜伯起於道。射宣王而死。篤信曰。是火滅煙残之理。不可謂無此事。倭漢古今往往有之。而久則滅熄者。其厲気之所残。漸消滅而尽耳。子産鬼有所帰乃不為厲之説。有旨哉。
書き下し
問ふ、古今人鬼の祟りを為す者有るは、何ぞや。答へて曰く、蓋し人の気魄強壮なる者有りて、歘然として枉死すれば、其の気未だ遽かに消散し尽くす能はず。其の魂猶ほ能く鬼と為りて、淫厲を作す者、亦間々之有り。左伝昭公七年に載す、伯有厲を為し、駟帯を殺し、又公孫段を殺す。国人懼る。子産伯有の子公孫洩及び良止を立て、宗廟有らしむ。子大叔其の故を問ふ。子産曰く、鬼帰する所有れば、乃ち厲を為さず。吾之が為に帰するなり、と。又曰く、匹夫匹婦も強死すれば、其の魂魄猶ほ能く人に憑依して、以て淫厲を為す。能く鬼と為る、亦宜ならずや、と。且つ周の春秋に曰く、周の宣王杜伯を殺して辜無し。後二年、日中に杜伯道に起ち、宣王を射て死せしむ、と。篤信曰く、是れ火滅して煙残るの理なり。此の事無しと謂ふべからず。倭漢古今往往之有り。而して久しければ則ち滅熄する者は、其の厲気の残る所、漸く消滅して尽くるのみ。子産の鬼帰する所有れば乃ち厲を為さずの説、旨有るかな。
現代語訳
問い:昔から今まで、死者の霊が祟ることがあるのはなぜですか。答え:思うに、気力の強い人が突然非業の死をとげると、その気はすぐには散り尽くさず、魂がなお鬼となって悪い祟りをなすことも、ときにはあるのです。『左伝』昭公七年に載っています。伯有が祟りをなして駟帯を殺し、さらに公孫段を殺したので国の人々は恐れた。子産が伯有の子の公孫洩と良止を取り立てて宗廟を持たせた。子大叔がその理由を尋ねると、子産は「霊は帰る所があれば祟らない。私は帰る所を作ったのだ」と言い、さらに「普通の男女でも非業の死をとげれば、その魂魄はなお人に憑いて祟りをなす。鬼となるのも当然ではないか」と言いました。また周の春秋には「周の宣王が罪のない杜伯を殺した。二年後、真昼に杜伯が道に現れ、宣王を射て殺した」とあります。私(篤信)は言います。これは火が消えても煙が残るという理です。こうした事が無いとはいえません。日本にも中国にも昔から時々あります。そして時が経てば消えてしまうのは、残った祟りの気がだんだん消えて尽きるからにすぎません。子産の「霊は帰る所があれば祟らない」という説は、意味深いものです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・倫理・福を求むるは已に君子の心に非ず郊社は、天地生成の大德に報ゆるなり。然れども災沴には禳有り、順成には祈有り。君の私田を為すは則ち仁、民の公田を為すは則ち忠なり。福を求むるを嫌はず、禍を免るるを嫌はず。子孫の先祖を祭るは、追養繼孝を以てなり。我が祖父母より此の身有るなり。曰く、「先人の澤に賴りて、以て其の餘慶を享く」と。曰く、「吾朝夕奉養して歡を承けしに、一旦復た杯棬を獻ぜず、心悲思して寄する無し、故に祭薦して以て吾が情を伸ぶるなり」と。曰く、「吾貧賤にして菽水を供するに足らず、今鼎食するも親逮ばず、心悲思して及ぶ莫し、故に祭薦して以て吾が悔いを志すなり」と。豈に其の遊魂虛位の能く我を福せんが為に之を求めんや。福を求むるは已に君子の心に非ず。而して一飯の設、數拜の勤を以て、福を先人に求む、仁孝誠敬の心果たして是くのごとくならんや。利を謀らず、報を責めず、其の感激を望まず。他人に在りてすら猶ほ然り、而るに況んや我が先人をや。『詩』の祭は必ず福を言ふ、而して『楚茨』の諸詩を尤も甚だしと為す、豈に訓と為す可けんや。吾獨り『采蘩』『采蘋』の二詩に取る有り。物を盡くし志を盡くし、以て吾が子孫の誠敬を達するのみ、他は及ばざるなり。此の道に明らかならば、則ち天下の萬事萬物皆我の當に為すべき所を盡くし、禍福利害は皆其の自ら至るに聽す。人事脩まりて外慕の心息み、道に向かふこと專らにして作輟の念忘れん。何者ぞ。性分に明らかにして冀悻する所無ければなり。
-
『呻吟語』外篇・品藻・古人の笑ふ所宋儒は古に泥み、更に古昔の真偽、今世の是非を考へず。只だ祭祀一節の如し。古人は席地にして飲食に便ならず。故に簠簋籩豆を尚び、其の器は皆な高し。今古人を祭るに之を用ふるは、其の時に從ふなり。子孫の祖考を祭るは、只だ祖考の常に用ひし所の宜しきを用ふ可し。而るに簠簋籩豆是れ設くるは可ならんや。諸の此の類の如きは甚だ多く、皆な古人の笑ふ所なり。古人をして今に生まれしめば、舉動必ず此の如くならざらん。
-
論語・八佾篇子曰く、『禘は既に灌より往くもの、吾これを観るを欲せざるなり。』
-
『墨子』明鬼下今、無鬼を執る者曰く、意うに親の利に忠ならずして、孝子を害するを為さんか、と。子墨子曰く、古今の鬼を為すは、他に非ざるなり。天鬼有り、亦た山川鬼神なる者有り、亦た人、死して鬼と為る者有り。今、子の其の父に先んじて死し、弟の其の兄に先んじて死する者有り。意うに死すること然りと雖も、然り而して天下の陳物、曰く、先に生まるる者は先に死す、と。是くの若くんば、則ち先に死する者は父に非ざれば則ち母、兄に非ざれば而ち姒なり。今、潔く酒醴粢盛を為りて、以て敬み慎みて祭祀す。若し鬼神をして誠に有らしめば、是れ其の父母姒兄を得て之に飲食せしむるなり。豈に厚利に非ざらんや。
-
『呻吟語』内篇・談道・鑿ちて求む可からず、道破す可からず鬼神を敬事するは、聖人の世教を維持する大端なり。其の義は深く、其の功は大なり。但だ自ら鑿ちて求む可からず、道破す可からざるのみ。
-
『都鄙問答』卷之二・鬼神ヲ遠ト云事ヲ問ノ段又問、或人云、子曰、其の鬼に非ずして之を祭るは諂ひなりと、祭べからずとのたまふ。我朝には、土地の神、又太神宮といへども、御恩の為に、五穀の出来、初穂や或は神楽などを捧奉ることなれば、兎角唐土とは違有と云り。然るに汝、神は一列の如くに云へるは、如何なることぞ。