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慎思録 / 巻之三

顏子曰。夫子之道至大。故天下莫能容。不容然後見君子。蓋衆人不知。故天下莫能容。是可爲君子。若衆人而知。則亦衆人耳。何足以爲君子哉。凡君子之所爲。俗人必誹笑。世之愚者不知。故隨而和之。孟子所謂君子之所爲。小人誠不知也。又曰。有不虞之譽。有求全之毀。故愚俗毀譽。不可妄信。况可爲欣戚乎。苟以愚俗之毀譽爲欣戚者。當見其識趣之卑陋而已。豈特君子之道若是而已哉。雖雜藝亦然。如昔人稱郢中之歌。其曲彌高。和者彌寡。其曲之高者。豈人誠不知也。老子曰。下士聞道大笑之。不笑不足以爲道。又曰。知我者希。則我貴矣。亦此意而巳。

新字:顔子曰。夫子之道至大。故天下莫能容。不容然後見君子。蓋衆人不知。故天下莫能容。是可為君子。若衆人而知。則亦衆人耳。何足以為君子哉。凡君子之所為。俗人必誹笑。世之愚者不知。故随而和之。孟子所謂君子之所為。小人誠不知也。又曰。有不虞之誉。有求全之毀。故愚俗毀誉。不可妄信。況可為欣戚乎。苟以愚俗之毀誉為欣戚者。当見其識趣之卑陋而已。豈特君子之道若是而已哉。雖雑芸亦然。如昔人称郢中之歌。其曲弥高。和者弥寡。其曲之高者。豈人誠不知也。老子曰。下士聞道大笑之。不笑不足以為道。又曰。知我者希。則我貴矣。亦此意而巳。

書き下し

顔子曰く、夫子の道至大なり。故に天下能く容るる莫し。容れられずして然る後に君子を見る、と。蓋し衆人知らず、故に天下能く容るる莫し。是れ君子と為すべし。若し衆人にして知らば、則ち亦衆人のみ。何ぞ以て君子と為すに足らんや。凡そ君子の為す所は、俗人必ず誹笑す。世の愚者知らず、故に随ひて之に和す。孟子の所謂君子の為す所は、小人誠に知らざるなり。又曰く、虞らざるの誉有り、全きを求むるの毀有り、と。故に愚俗の毀誉は、妄りに信ずべからず。况んや欣戚を為すべけんや。苟も愚俗の毀誉を以て欣戚を為す者は、当に其の識趣の卑陋なるを見るべきのみ。豈に特に君子の道のみ是の若くならんや。雑芸と雖も亦然り。昔人の郢中の歌を称するが如き、其の曲弥高ければ、和する者弥寡し。其の曲の高き者は、豈に人誠に知らざらんや。老子曰く、下士道を聞けば大いに之を笑ふ。笑はざれば以て道と為すに足らず、と。又曰く、我を知る者希なれば、則ち我貴し、と。亦此の意のみ。

現代語訳

顔回は「先生の道はきわめて大きいので、天下はそれを受け入れられません。受け入れられないことで、かえって君子であることが分かるのです」と言いました。思うに、世間の人は分からないので天下は受け入れられず、それでこそ君子といえます。もし世間の人が分かるようなら、それは世間並みの人にすぎず、どうして君子とするに足りましょう。君子のすることは、俗人が必ずそしり笑います。世の愚かな者は分からないので、それに調子を合わせます。孟子のいう「君子のすることは、小人にはもともと分からない」です。また「思いがけない誉れがあり、完全を求めてのそしりがある」とも言いました。ですから愚かな世俗の毀誉はむやみに信じてはならず、ましてそれで喜んだり悲しんだりしてよいものでしょうか。世俗の毀誉で喜び悲しむ者は、その見識の低さが見えるだけです。これは君子の道に限りません。雑芸でも同じです。昔の人が郢の町の歌を評したように、曲が高尚になるほど唱和する者は少なくなります。曲の高いものは、人がまことに分からないのでしょう。老子は「下等の人が道を聞けば大笑いする。笑われなければ道とするに足りない」と言い、また「私を知る者が少ないほど、私は貴い」とも言いました。これも同じ意味です。

解説

冒頭は『史記』孔子世家で、陳蔡の間で窮した孔子に顔回が答えた言葉です。さらに『孟子』告子下・離婁上、宋玉「対楚王問」の郢中の歌(高尚な曲ほど和する者が少ない)、『老子』第四十一章・第七十章を重ね、本物は世に理解されにくいと論じます。益軒は、世俗の毀誉で一喜一憂するのは見識が低い証拠だと戒めます。周囲の評価を気にしすぎず、自分が正しいと考える仕事の質を守るための支えとして読める章です。

この章句が説くこと

毀誉君子見識孤高

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