慎思録 / 巻之二
愛敬者。凡接人之心法。非啻施之父母而已。雖隨貴賤尊卑長幼親疎之等差。而待之各有厚薄隆殺。然不可不以愛敬之心待接之。苟於卑幼貧賤踈遠庸愚之人。微有簡慢刻薄之心。是乃不仁無禮。可謂傷損吾天性。侮暴吾人倫也。聖人全體於天地之心。天地生物之心。與聖人仁民之心。其理一也。其量亦同也。
新字:愛敬者。凡接人之心法。非啻施之父母而已。雖随貴賤尊卑長幼親疎之等差。而待之各有厚薄隆殺。然不可不以愛敬之心待接之。苟於卑幼貧賤疎遠庸愚之人。微有簡慢刻薄之心。是乃不仁無礼。可謂傷損吾天性。侮暴吾人倫也。聖人全体於天地之心。天地生物之心。与聖人仁民之心。其理一也。其量亦同也。
書き下し
愛敬なる者は、凡そ人に接するの心法なり。啻に之を父母に施すのみに非ず。貴賤尊卑長幼親疎の等差に随ひて、之を待つに各々厚薄隆殺有りと雖も、然れども愛敬の心を以て之を待接せざるべからず。苟も卑幼貧賤踈遠庸愚の人に於て、微しく簡慢刻薄の心有れば、是れ乃ち不仁無礼にして、吾が天性を傷損し、吾が人倫を侮暴すと謂ふべきなり。聖人は天地の心を全体す。天地生物の心と、聖人仁民の心とは、其の理一なり。其の量も亦た同じ。
現代語訳
愛敬とは、およそ人に接するときの心の法です。父母に施すだけのものではありません。身分の貴賤・尊卑・年齢の長幼・関係の親疎の差に従って、接し方にそれぞれ厚い薄い、手厚い簡略の違いはあっても、愛敬の心で接しなければなりません。もし年少の者や貧しく身分の低い者、疎遠な者や凡庸な者に対して、少しでもおろそかにしたり冷たくしたりする心があれば、それは不仁で無礼であり、自分の天性を損ない、自分の人倫を侮り乱すものと言うべきです。聖人は天地の心をそのまま身に備えています。天地が物を生む心と、聖人が民を慈しむ心とは、その理が一つであり、その大きさもまた同じです。
解説
前条の親への愛敬を、すべての人への接し方に広げて、巻二を結ぶ条です。立場や関係によって接し方に差はあってよいが、愛敬の心そのものは誰にも欠いてはならない、というのが要点です。目下の人や自分に得のない人への態度にこそ、その人の本当の人柄が表れます。「天地生物の心」は朱子の『仁説』などで仁を説明する言葉です。店員や後輩、立場の弱い人への小さな横柄さが、自分の天性を傷つけると考えると、日々の態度を改めるきっかけになります。
この章句が説くこと
愛敬仁礼接人人倫
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