慎思録 / 巻之二
好惡不正。是所以人道之廢也。好惡正。則人道立。而行焉。好惡之正與不正。其所繫大如此。君子之心。如靑天白日之無蔽昧然。其奥乎不可測者。以德之深厚也。猶水雖澄明。其積深者。沕而難測。小人之心。如頑雲陰霧之不晴明。然其淺而易測者。以其心之淺薄也。
新字:好悪不正。是所以人道之廃也。好悪正。則人道立。而行焉。好悪之正与不正。其所繋大如此。君子之心。如青天白日之無蔽昧然。其奥乎不可測者。以徳之深厚也。猶水雖澄明。其積深者。沕而難測。小人之心。如頑雲陰霧之不晴明。然其浅而易測者。以其心之浅薄也。
書き下し
好悪正しからざるは、是れ人道の廃るる所以なり。好悪正しければ、則ち人道立ちて、行はる。好悪の正と不正と、其の繋かる所の大なること此くの如し。君子の心は、青天白日の蔽昧無きが如く然り。其の奥乎として測るべからざる者は、徳の深厚なるを以てなり。猶ほ水澄明なりと雖も、其の積むこと深き者は、沕として測り難きがごとし。小人の心は、頑雲陰霧の晴明ならざるが如く然り。其の浅くして測り易き者は、其の心の浅薄なるを以てなり。
現代語訳
好き嫌いが正しくないことが、人の道がすたれるもとです。好き嫌いが正しければ、人の道は立って行われます。好き嫌いが正しいか正しくないかに、かかっているものはこれほど大きいのです。君子の心は、青空に輝く太陽のように覆い隠すものがありません。それでいて奥深く測り知れないのは、徳が深く厚いからです。ちょうど水が澄みきっていても、深く湛えている所は、奥深くて測りがたいようなものです。小人の心は、厚い雲や暗い霧のように晴れていません。それでいて浅く測りやすいのは、その心が浅く薄いからです。
解説
好き嫌いが正しいかどうかに人の道がかかっている、という前半と、君子と小人の心を天気と水にたとえた後半からなる条です。『大学』伝七章・八章で、好悪の偏りが身を修めることを妨げると説かれるのと同じ主題です。君子の心は澄んで明るいのに底が知れず、小人の心は曇っているのに浅い、という対比は見事です。本当に深みのある人は隠しごとがないのに奥が深く、浅い人ほど何かを隠している。人を見るときの一つの物差しになります。
この章句が説くこと
好悪人道君子徳心
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