慎思録 / 巻之二
莊子述六經所載之要旨。韓子言易詩春秋左氏之文法。皆先正之所稱述也。韓子自是鉅儒。其言當如是。如莊周。是方外之徒。其言有理如此。可謂奇才也。夫有才。則雖小人之言。曲學之說。亦儘有理。是君子所以不以人廢言也。如東坡諸說。亦然。
新字:荘子述六経所載之要旨。韓子言易詩春秋左氏之文法。皆先正之所称述也。韓子自是鉅儒。其言当如是。如荘周。是方外之徒。其言有理如此。可謂奇才也。夫有才。則雖小人之言。曲学之説。亦儘有理。是君子所以不以人廃言也。如東坡諸説。亦然。
書き下し
荘子は六経の載する所の要旨を述べ、韓子は易詩春秋左氏の文法を言ふ。皆先正の称述する所なり。韓子は自ら是れ鉅儒なり。其の言当に是くの如くなるべし。荘周の如きは、是れ方外の徒なり。其の言の理有ること此くの如し。奇才と謂ふべきなり。夫れ才有れば、則ち小人の言、曲学の説と雖も、亦た儘く理有り。是れ君子の人を以て言を廃せざる所以なり。東坡の諸説の如きも、亦た然り。
現代語訳
荘子は六経に載っている要旨を述べ、韓子(韓愈)は『易経』『詩経』『春秋』『左伝』の文章の法を論じました。どちらも先の賢人たちが称えて述べてきたものです。韓子はもとより大儒ですから、その言葉がそのようであるのは当然です。荘周のほうは世俗の外の人ですが、その言葉がこのように理にかなっています。奇才と言うべきです。そもそも才があれば、小人の言葉や偏った学問の説であっても、十分に理があります。これが、君子が人によって言葉を捨てない理由です。蘇東坡の諸説もまた同じです。
解説
学派や人物の評価と、その言葉の価値とを分けて考えよ、という条です。荘子の六経論は『荘子』天下篇の「詩は以て志を道ひ、書は以て事を道ふ」の一節、韓愈の文法論は「進学解」の「易は奇にして法、詩は正にして葩」の一節です。「人を以て言を廃せず」は『論語』衛霊公篇の言葉です。異端とした荘子や蘇東坡(二・六十七)にも理のある言葉は認める、という公平さが光ります。苦手な人や立場の違う人の意見にも耳を傾ける姿勢を教えてくれます。
この章句が説くこと
公平言才荘子韓愈
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