慎思録 / 巻之二
許魯齋曰。如周成康漢文景。未嘗事遠畧也。治吾所當治者也。不取其勝夷狄也。故亦不至於爲夷狄所敗。篤信曰。明太祖恢復中國。不誅元順帝。而送還於胡國。此亦成康文景之意。能知治夷狄道也。
新字:許魯斎曰。如周成康漢文景。未嘗事遠略也。治吾所当治者也。不取其勝夷狄也。故亦不至於為夷狄所敗。篤信曰。明太祖恢復中国。不誅元順帝。而送還於胡国。此亦成康文景之意。能知治夷狄道也。
書き下し
許魯斎曰く、周の成康、漢の文景の如きは、未だ嘗て遠略を事とせざるなり。吾が当に治むべき所の者を治むるなり。其の夷狄に勝つことを取らざるなり。故に亦た夷狄の敗る所と為るに至らず、と。篤信曰く、明の太祖は中国を恢復し、元の順帝を誅せずして、胡国に送還す。此れも亦た成康文景の意にして、能く夷狄を治むるの道を知るなり。
現代語訳
許魯斎は「周の成王・康王、漢の文帝・景帝は、遠方を攻め取ることを事としなかった。自分が治めるべきものを治めたのである。夷狄に勝つことを求めなかった。だから夷狄に敗られることにも至らなかった」と言いました。私篤信が言います。明の太祖は中国を回復し、元の順帝を殺さずに、北方の国へ送り返しました。これもまた成王・康王・文帝・景帝の意と同じで、よく夷狄を治める道を知っていたのです。
解説
遠方への拡張を求めず、自国をよく治めることが外患を防ぐ道だ、という条です。許魯斎は元の朱子学者許衡です。周の成王・康王、漢の文帝・景帝は、いずれも内政を整えて民を休ませた「治世」の代表とされます。明の太祖朱元璋の元への処遇については、史実では順帝は明軍の迫る大都から自ら北へ逃れたとされ、益軒の記述とはやや異なります。企業でも、無理な拡大よりまず足元を固めることが結局は強さになる、という教えとして読めます。
この章句が説くこと
治国内政許衡守成戒め
関連する章句
-
『長短経』君徳或るひと曰く「班固称す、周は成康と云い、漢は文景と言うと。斯の言当たれるか」と。虞南曰く「成康は文武の遺跡を承け、周・召を以て相と為し、篤厚の氓を化し、積仁の徳に因る。疾風の草を偃すも、未だ喩えと為すに足らず。漢祖の基を開くが如きに至りては、日も給かならず、嬴を亡ぼすの弊、猶お存する者有り。太宗は茲の仁恕を体し、式ちて玄黙に遵い、秦・項の酷烈を滌ぎ、軒・昊の淳風に反す。幾んど刑を厝くに致る。斯れ難しと為すなり。若し新垣の説に溺れず、鄧通の夢を取る無くんば、懍懍乎たり、庶幾くは王道に近からん。景帝の周の康に擬するは、則ち尚お慙徳有り」と。
-
史記 孝景本紀孝文大徳を施し、天下懐安す。孝景に至り、天下を承け、務めて民を安んじ、賦斂を薄くし、俱に無為に休息せんと欲す。
-
『宋名臣言行録』後集巻九・蘇轍漢の武帝外に四夷を事とし内に宮室を興し、財用匱竭す。是に於いて鹽鐡・□酤・均輸の政を修む。民命に堪えず、幾ど大亂に至る。昭帝霍光に委任し煩苛を罷去して漢室乃ち定まる。光武・顯宗は察を以て明と爲し、讖を以て事を决す。天下恐懼し人不安を懷く。章帝深く其の失を鑒み、代うるに寛厚愷悌の政を以てす。後世焉を稱う。
-
『慎思録』巻之五古昔中夏三代の盛世は、固より万世の当に法傚すべき所にして、後世の及ぶべからざるのみ。周亡びて以降、漢の文帝・光武・唐の太宗等の数君の如き、其の徳其の治、三代の聖主に及ばずと雖も、亦稀に出づる所の英主なり。其の恭倹忠厚、諫を納れ善を好むが如き、百世の法と為すべきなり。其の余の季世の庸君の世出でて、昏乱相継ぐが如し。然らば則ち今人の談論を做すに、妄りに古を是とし今を非とすることを意ふべからず。此れ忠厚の道に非ず。且つ古昔の世に汚隆有り、主に賢否有ることを思ふべし。古の及ぶべからざる者は、其の時の隆んなる、其の主の賢なるに因りて然るのみ。一概に古に及ぶべからずと為して尚論すべからず。後世に至りて、苟も狂妄の学士の漫りに古を是とし今を非とする者有りて、忌諱を避けずして之を誹議すれば、吾恐らくは時君其の怒りに任へざるの禍有らんことも、亦未だ知るべからず。後世の学者は須らく是の邦に居りて其の大夫を非らずの慎みを思ふべし。吾輩幸ひに太平の世に生まれ、治化の中に浴し、安閑に居りて恣に詩書を読み、終身干戈を事とせず。誠に是れ人生の一大幸事なるかな。学者常に斯の楽しみを楽しむべし。偏に古を慕ひて今を議すべからざるなり。
-
『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁臣願わくは陛下深く意を邊事に留むる無かれ。恐らくは邊臣觀望して功を要め、事を生じて釁を夷狄に結び、生靈を殘害し財用を耗竭し爵賞を縻費せん。惟だに今日目前の害と爲るのみならず、又た將に他時意外の憂いを貽さんとす。願わくは陛下孟子の隣に交わるの道を究め、孔子の遠きを來たすの德を修め、好生の德をして夷狄に洽からしめよ。彼將に陛下を愛戴すること父母の如くならん。其の酋首は桀驁にして我が疆を侵侮せんと欲すと雖も、其の徒も亦た之が爲に用いられざるなり。
-
『長短経』君徳昔、魯の荘は伎芸多く、詩人之を刺る。魯の昭は容儀に善く、出奔の禍有り。是に由りて之を言えば、人主をして離婁の如く視、師曠の如く聴き、夷羿の如く射、史籀の如く書せしむるは、有司の職に善しと謂う可し。理に何ぞ益あらんや。匡衡の元帝を諫め政を改むるの書に曰く「命を受くるの王は、務め業を創め統を垂れ、之を伝えて窮まり無きに在り。体を継ぐの君は、必ず先王の徳を承宣して其の功を褒大するに存す。今、陛下の聖徳は天のごとく覆い、海内を子愛す。然れども陰陽未だ和せず、奸邪未だ禁ぜられざるは、殆ど議論する者、未だ先帝の盛功を丕揚せずして、争いて制度用う可からずと言えばなり。臣竊かに国家の楽成の業を釈てて、虚しく此の紛紛を為すを恨む。願わくは陛下、統業の事を詳覧せられんことを」と。此れ守文なり。〕