長短経 / 君徳
昔魯莊多伎藝、詩人刺之、魯昭善容儀、有出奔之禍。由是言之、使人主視如離婁、聽如師曠、射如夷羿、書如史籀、可謂善於有司之職、何益於理乎!匡衡《諫元帝改政書》曰、「受命之王、務在創業垂統、傳之無窮。繼體之君、必存於承宣先王之徳而褒大其功。今陛下聖徳天覆、子愛海内、然陰陽未和、奸邪未禁者、殆議論者未丕揚先帝之盛功、争言制度不可用。臣竊恨國家釋樂成之業、而虚為此紛紛也。願陛下詳覽統業之事、此守文也。」〕
新字:昔魯荘多伎芸、詩人刺之、魯昭善容儀、有出奔之禍。由是言之、使人主視如離婁、聴如師曠、射如夷羿、書如史籀、可謂善於有司之職、何益於理乎!匡衡《諫元帝改政書》曰、「受命之王、務在創業垂統、伝之無窮。継体之君、必存於承宣先王之徳而褒大其功。今陛下聖徳天覆、子愛海内、然陰陽未和、奸邪未禁者、殆議論者未丕揚先帝之盛功、争言制度不可用。臣窃恨国家釈楽成之業、而虚為此紛紛也。願陛下詳覧統業之事、此守文也。」〕
書き下し
昔、魯の荘は伎芸多く、詩人之を刺る。魯の昭は容儀に善く、出奔の禍有り。是に由りて之を言えば、人主をして離婁の如く視、師曠の如く聴き、夷羿の如く射、史籀の如く書せしむるは、有司の職に善しと謂う可し。理に何ぞ益あらんや。匡衡の元帝を諫め政を改むるの書に曰く「命を受くるの王は、務め業を創め統を垂れ、之を伝えて窮まり無きに在り。体を継ぐの君は、必ず先王の徳を承宣して其の功を褒大するに存す。今、陛下の聖徳は天のごとく覆い、海内を子愛す。然れども陰陽未だ和せず、奸邪未だ禁ぜられざるは、殆ど議論する者、未だ先帝の盛功を丕揚せずして、争いて制度用う可からずと言えばなり。臣竊かに国家の楽成の業を釈てて、虚しく此の紛紛を為すを恨む。願わくは陛下、統業の事を詳覧せられんことを」と。此れ守文なり。〕
現代語訳
昔、魯の荘公は技芸が多く、詩人がこれを風刺した。魯の昭公は立ち居ふるまいが立派だったが、国を追われる禍にあった。ここから言えば、君主に離婁のように見させ、師曠のように聴かせ、羿のように射させ、史籀のように書かせたとしても、それは担当官の職務に優れていると言えるだけである。統治に何の益があろうか。匡衡が元帝を諫めて政治を改めるよう求めた上書にこうある。「天命を受けた王は、事業を創め統を垂れ、これを限りなく伝えることに務めがある。その体を継ぐ君は、必ず先王の徳を受け継いで広め、その功を褒めて大きくすることにある。いま陛下の聖徳は天のように覆い、天下を子のように愛しておられます。しかし陰陽がまだ調和せず、悪事がまだ禁じられていないのは、おそらく議論する者が先帝の盛大な功績を大いに顕彰せず、争って制度は使えないと言っているからです。私はひそかに、国家がすでに成った事業を捨てて、いたずらにこの紛糾を招いていることを恨みます。どうか陛下、統を継ぐ事業についてよくご覧ください」。これが先例を守るということである。〕
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
易経・蠱卦周易 第十八卦。巽下艮上。易経。蠱は、元いに亨る。大川を渉るに利ろし。甲に先だつこと三日、甲に後るること三日。初六、父の蠱を幹す、子有れば考咎无し、厲けれども終には吉。九二、母の蠱を幹す、貞にすべからず。九三、父の蠱を幹す、小しく悔い有れども、大いなる咎无し。六四、父の蠱を裕かにす、往けば吝を見る。六五、父の蠱を幹す、用て誉れあり。上九、王侯に事えず、其の事を高尚にす。彖に曰く、
-
『政談』制度の事右の如く衣服等の制度を定めんにはかはり目のきわ境なくては叶はさること也、先つ東照宮へ御告あるへきことなり、日光御社参を仰せ出され、二年三年も前より御供廻の装束、諸大名の参詣の装束此度は斯の如くあるへしと号令ありて篤と支度させ、夫より直に平日に用ゆるやうに有りたきことなり、右一同上下仕換ゆることなれは、我人悪しきと、又例の手くせを出し利をまうけんとたくむへけれは、其の手当あるへきこと也、右の如く武家の制度を委細に立つること倹約の至極なれとも、諸事を新たに仕換ゆることなれは、当時困窮したる世界にては次第なく急にはなりかたかるへし、只先つ道中幷に御城下は幾何の供廻りを減少し、諸大名は江戸詰の家来を少くし、銭を鋳、貸借の道を開き、御旗本の諸士家中の武士のことは先つ其の儘にし置き、諸事の簡易に取捌くはかりにして最初に町人百姓と武家との差別を急度立つへきことなり、一切の事大そうなる事は先つ粗を立てゝ後に細にするときは仕よきものあり、前後緩急のついでとはこれを云ふなり、
-
『新論』守禦夫れ内政修まり、軍令飭ひ、邦国富み、守備班たば、則ち天下の宜しく釐革すべき所の者、大綱挙がる。大綱挙がれば、則ち其の瑣瑣たる者も亦た将に随ひて振起せんとす。夫れ英雄は時を相て変に処す。昔時未だ設けざる所にして、今日宜しく創立すべき所の者、亦た安んぞ熟思して之を講明せざるを得んや。臣を以て之を策すれば曰く、屯兵を設く、曰く、斥候を明らかにす、曰く、水兵を繕ふ、曰く、火器を練る、曰く、資糧を峙ふ。是の五者は、以て創立せざるべからざるなり。
-
史記 袁盎鼂錯列伝其の弁を以て太子に幸を得、太子の家号して「智嚢」と曰ふ。数(しばしば)孝文の時に上書し、諸侯を削る事、及び法令の更定すべき者を言ふ。書数十たび上るも、孝文聴かず、然れども其の材を奇とし、遷して中大夫と為す。是の時に当たり、太子錯の計策を善しとし、袁盎・諸大功臣多く錯を好まず。景帝即位し、錯を以て内史と為す。錯常に数(しばしば)閒を請ひて事を言ひ、輒ち聴かれ、寵幸九卿を傾け、法令多く更定する所あり。丞相申屠嘉心に便とせず、力未だ以て傷つくる有らず。内史の府は太上廟の壖(ぜん)中に居り、門東に出で、便ならず。錯乃ち両門を穿ちて南に出だし、廟の壖垣を鑿つ。丞相嘉聞き、大いに怒り、此の過ちに因りて奏請して錯を誅せんと欲す。錯之を聞き、即ち夜閒を請ひ、具さに上の為に之を言ふ。丞相事を奏し、因りて錯擅に廟垣を鑿ちて門と為す、廷尉に下して誅せんことを請ふと言ふ。上曰く、「此れ廟垣に非ず、乃ち壖中の垣なり、法に致さず」と。丞相謝す。朝を罷め、怒りて長史に謂ひて曰く、「吾当に先づ斬りて以て聞すべきに、乃ち先づ請ひ、児の売る所と為る、固より誤れり」と。丞相遂に病を発して死す。錯此を以て愈(いよい)よ貴し。遷りて御史大夫と為り、諸侯の罪過を請ひ、其の地を削り、其の枝郡を収めんとす。奏上し、上公卿列侯宗室をして集議せしむ。敢へて難ずる莫く、独り竇嬰之を争ふ。此に由りて錯と卻(げき)有り。錯の更むる所の令三十章、諸侯皆諠譁して鼂錯を疾む。錯の父之を聞き、潁川より来たり、錯に謂ひて曰く、「上初めて即位し、公政を為して事を用ひ、諸侯を侵削し、人の骨肉を別疏す。人口議して多く公を怨む者は、何ぞや」と。鼂錯曰く、「固よりなり。此の如くならずんば、天子尊からず、宗廟安からず」と。錯の父曰く、「劉氏は安けれども、鼂氏は危ふし。吾公を去りて帰らん」と。遂に薬を飲みて死し、曰く、「吾禍の吾が身に及ぶを見るに忍びず」と。
-
『春秋左氏伝』昭公四年 苟も社稷を利せば九月、鄫を取る。易きを言ふなり。莒亂る。著丘公立ちて鄫を撫せず。鄫叛きて來る。故に取ると曰ふ。凡そ邑に克ちて、師徒を用ゐざるを取ると曰ふ。鄭の子產丘賦を作る。國人之を謗りて曰く、「其の父は路に死し、己は蠆尾(たいび)と為りて、以て國に令す。國將に之を若何せん」と。子寬以て告ぐ。子產曰く、「何ぞ害あらん。苟も社稷を利せば、死生之を以てせん。且つ吾聞く、善を為す者は其の度を改めず、故に能く濟すこと有りと。民は逞(ほしいまま)にすべからず、度は改むべからず。詩に曰く、『禮義愆(あやま)たずんば、何ぞ人の言を恤へん』と。吾遷らず」と。渾罕曰く、「國氏其れ先づ亡びんか。君子法を涼(うす)きに作るも、其の敝は猶ほ貪なり。法を貪に作らば、敝將に之を若何せん。姬の列に在る者、蔡及び曹・滕、其れ先づ亡びんか。偪(せま)りて禮無し。鄭は衛に先だちて亡びん。偪りて法無し。政法に率(したが)はずして、心に制す。民各心有り、何の上か之れ有らん」と。冬、吳楚を伐ちて、棘・櫟・麻に入る。以て朱方の役に報ゆるなり。楚の沈尹射夏汭に奔命す。咸尹宜咎鍾離に城き、薳啟疆巢に城き、然丹州來に城く。東國水あり、以て城くべからず。彭生賴の師を罷む。
-
『講孟余話』滕文公上 第三章余をして横渠の時に生れしめば、必ず此の事を成さん者をと思へども、幽明道遥かにして詮方なし。況や今囹圄の囚となり、志ありと云へども遂ぐべき様なし。徒に横渠の説を読みて感涙胸を沽すのみ。但し横渠の説は田を画し井となすか最も用意の所と見えたり。仁政は経界より始まるとあれば、此の事固より要務にはあるべけれど、是れは法制に係りたることにて、万一人情に合し土俗に宜からぬことあれば、大いに民間を擾乱するに至る。故に夫れよりは此の一節に云ふ所の実を主として行ひ度きことなり。