慎思録 / 巻之二
學者欲廣其智。必先須要多聞多見。葢非多聞多見。何足以廣智乎。廣聞見之智。而繼之以精思。乃所以開明其眞智也。然雖多聞見。苟義理不貫通。則不能開明心智。可謂不自得也。是其所學止于耳目。而不達心智也。然以涉獵小說志怪猥談無用之書爲博學者。非也。
新字:学者欲広其智。必先須要多聞多見。葢非多聞多見。何足以広智乎。広聞見之智。而継之以精思。乃所以開明其真智也。然雖多聞見。苟義理不貫通。則不能開明心智。可謂不自得也。是其所学止于耳目。而不達心智也。然以渉猟小説志怪猥談無用之書為博学者。非也。
書き下し
学者其の智を広めんと欲すれば、必ず先づ須らく多聞多見を要すべし。蓋し多聞多見に非ざれば、何ぞ以て智を広むるに足らんや。聞見の智を広めて、之に継ぐに精思を以てす。乃ち其の真智を開明する所以なり。然れども多く聞見すと雖も、苟も義理貫通せざれば、則ち心智を開明すること能はず。自得せずと謂ふべきなり。是れ其の学ぶ所耳目に止まりて、心智に達せざるなり。然るに小説志怪猥談無用の書を渉猟するを以て博学と為す者は、非なり。
現代語訳
学ぶ者がその智を広げようとするなら、まず多く聞き多く見ることが必要です。思うに多く聞き多く見るのでなければ、どうして智を広げられましょう。見聞による智を広げ、それに精しく考えることを続ける。これがその真の智を明らかに開くわけです。しかし多く見聞きしても、もし義理が貫き通らなければ、心の智を開くことはできません。自得していないと言うべきです。これは学んだことが耳目にとどまって、心の智に達していないのです。とはいえ、小説や怪異談、卑俗な話など役に立たない書をあさり読むのを博学とするのは誤りです。
解説
見聞を広めることと、それを深く考えることの両方が必要だ、と説く条です。『論語』為政篇の「学びて思はざれば則ち罔し」と同じ構えで、見聞の智と、考えて開く真の智とを区別しています。本書の書名の「慎思」の考えがよく表れています。情報をたくさん集めても、筋道が通るまで考えなければ知恵にはならない。しかも何でも読めばよいわけではなく、読む物を選ぶことも大切だ。情報過多の時代の学び方そのものへの助言として読めます。
この章句が説くこと
智見聞精思博学自得
関連する章句
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『慎思録』巻之三智の明暗は、固より気禀の清濁に由るなり。然れども智の小大の如きは、復た必ず見聞する所の広狭に由る。蓋し見聞広ければ、則ち其の智も亦大なり。見聞狭ければ、則ち其の智も亦小なり。故に其の智を大にせんと欲すれば、則ち必ず先づ須らく其の見聞を広むべし。見聞を広むるの道は他無し、読誦問詢に在るのみ。而して読書の功、最も多きに居る。朱子曰く、未だ耳目小にして、其の心智大なる者有らざるなり、と。然れども雑学に広博なるが如きは、則ち心智を開明すること能はず。所謂多しと雖も、亦奚を以て為さんや。
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『慎思録』巻之一学は道を知るを以て本と為す。道を知ることは自得に非ざれば、則ち能はざるなり。蓋し自得すること能はざれば、則ち古に博く今を知ると雖も、道を知ると為すべからず。此れ学の自得を貴ぶ所以なり。自得の方は、慎思を以て要と為す。精微に通ずる所以なり。故に曰く、思を睿と曰ひ、睿は聖を作すと。周子曰く、思は聖功の本にして、吉凶の機なりと。程子も亦曰く、学は思に本づくと。蓋し自得の方は、固より博学を以て先と為す。然れども慎思に非ざれば、則ち黙識心通して之を己に得ること能はず。自得とは何ぞや。自然に之を得るなり。自得する所以の者は、其の功を急がず、其の等を躐えず、深く造るに道を以てし、力を用ふること久しくして、自然に之を得るなり。臆度して強ひて求むべからざるなり。又偶然にして頓悟すべからざるなり。
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『慎思録』巻之三本邦古来、忠臣孝子廉潔高行の者少なからず。澆漓の季世と雖も亦然り。文士の能く之を記する者無し。往往埋没して聞こゆる無き者、何ぞ勝げて計ふべけんや。此れ憾むべしと為すのみ。大凡格致の工夫、其の目に四有り。中庸の所謂博学審問慎思明弁、是れなり。此の四件は、其の一を闕けば則ち不可なり。而して博学を以て規模と為す。博学に非ざれば、則ち審問慎思明弁せんと欲すと雖も、然れども固陋偏狭にして、功を施す所無し。窃かに謂ふ、審問は博学に属し、明弁は慎思に属す。然らば則ち学を為すの道は、其の要学と思とに在るのみ。故に論語に曰く、学んで思はざれば則ち罔し、思うて学ばざれば則ち殆し、と。此れ学と思とを以て相対して説くに非ずや。夫れ博学審問の二者は、人に求むるなり。求むる所外に在り。慎思明弁の二者は、己に求むるなり。求むる所中に在り。故に博学審問すと雖も、然れども慎思明弁せざれば、則ち其の学ぶ所徒らに外に在り、汗漫にして自ら心に得る能はず。後の学者、博学なる者或いは之有り。然れども格物致知する能はざる者は、豈に徒らに博学を事として、慎思の功夫を闕くの故に非ずや。故に博学審問は、是れ開初発功の事なり。慎思明弁は、是れ成終収功の事なり。且つ学ぶ所氾濫すれば、則ち駁雑にして功無し。所謂誠意正心修身斉家治国平天下、此の六者は、則ち格物致知の目にして、博学の序なり。博学とは、之を学ぶのみ。是れ序に循ひて漸く進みて、本より末に往き、近きより遠きに行く者なり。然らば則ち古の所謂博学は、今の博学と異なれり。
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