慎思録 / 巻之二
杜詩云。乾坤萬里眼。時序百年心。言君子不出戶。而知天下。雖不跋涉萬里。亦可以達觀天下也。不出卷而知古今。斯身雖不享保百年。亦可以通貫古今也。不可以人而無此眼。又不可無此心。
新字:杜詩云。乾坤万里眼。時序百年心。言君子不出戸。而知天下。雖不跋渉万里。亦可以達観天下也。不出巻而知古今。斯身雖不享保百年。亦可以通貫古今也。不可以人而無此眼。又不可無此心。
書き下し
杜詩に云ふ、乾坤万里の眼、時序百年の心、と。君子は戸を出でずして天下を知り、万里を跋渉せずと雖も、亦た以て天下を達観すべきを言ふなり。巻を出でずして古今を知り、斯の身百年を享保せずと雖も、亦た以て古今を通貫すべきなり。人として此の眼無かるべからず。又此の心無かるべからず。
現代語訳
杜甫の詩に「天地を万里見渡す眼、季節の移ろいに百年を思う心」とあります。君子は戸口を出なくても天下を知り、万里を歩き回らなくても天下を見通すことができる、ということを言っています。書物を離れなくても古今を知り、この身が百年を生きなくても、古今を貫いて知ることができます。人としてこの眼がなくてはならず、またこの心がなくてはなりません。
解説
杜甫の「春日江村」の句を借りて、書物によって空間と時間を超えて知る眼と心を持て、と説く条です。「戸を出でずして天下を知る」は『老子』第四十七章の言葉です。旅を好み自ら各地を歩いた益軒ですが、ここでは読書によって行けない所、生きられない時代にまで視野を広げることを勧めています。インターネットで世界の情報に触れられる今こそ、断片をつなぎ、長い時間の流れの中で物事を見る「眼」と「心」が問われています。
この章句が説くこと
読書達観視野古今博学
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