学則 / 学則四
古有聖人。今無聖人。故學必古。然無古無今。無今無古。今詎可廢乎。世世相望。孰匪古而孰匪今。故通古以立極。知今以體之。差世世以觀其來。其於民俗人情。猶眎諸掌邪。夫古今殊矣。何以見其殊。唯其物。物以世殊。世以物殊。蓋自秦漢而後。莫有聖人。然亦各有所建焉。祇其知不周物。所以無聖人也。雖然。業已有物。必徵諸志。而見其殊。以殊相映。而後足以論其世。不爾懸一定之權衡。以歷詆百世。亦易易焉耳。是直己而不問其世。乃何以史爲。故欲知今者。必通古。欲通古者。必史。史必志。而後六經益明。六經明而聖人之道無古今。夫然後天下可得而治。故君子必論世。亦唯物。
新字:古有聖人。今無聖人。故学必古。然無古無今。無今無古。今詎可廃乎。世世相望。孰匪古而孰匪今。故通古以立極。知今以体之。差世世以観其来。其於民俗人情。猶眎諸掌邪。夫古今殊矣。何以見其殊。唯其物。物以世殊。世以物殊。蓋自秦漢而後。莫有聖人。然亦各有所建焉。祇其知不周物。所以無聖人也。雖然。業已有物。必徴諸志。而見其殊。以殊相映。而後足以論其世。不爾懸一定之権衡。以歴詆百世。亦易易焉耳。是直己而不問其世。乃何以史為。故欲知今者。必通古。欲通古者。必史。史必志。而後六経益明。六経明而聖人之道無古今。夫然後天下可得而治。故君子必論世。亦唯物。
書き下し
古に聖人有り、今聖人無し。故に学は必ず古なり。然れども古無ければ今無く、今無ければ古無し。今詎ぞ廃すべけんや。世世相望む、孰れか古に匪ずして孰れか今に匪ざらん。故に古に通じて以て極を立て、今を知りて以て之を体す。世世を差して以て其の来るを観れば、其の民俗人情に於けるや、猶ほ諸を掌に眎るがごときか。夫れ古今殊なり。何を以てか其の殊なるを見ん。唯だ其の物なり。物は世を以て殊に、世は物を以て殊なり。蓋し秦漢よりして後、聖人有る莫し。然れども亦た各〻建つる所有り。祇だ其の知、物に周からず、聖人無き所以なり。然りと雖も、業已に物有り。必ず諸を志に徴して其の殊なるを見、殊を以て相映じて、而る後に以て其の世を論ずるに足る。爾らずして一定の権衡を懸けて、以て百世を歴詆するは、亦た易易たるのみ。是れ直だ己のみにして其の世を問はず、乃ち何を以てか史を為さん。故に今を知らんと欲する者は必ず古に通じ、古に通ぜんと欲する者は必ず史、史は必ず志にして、而る後に六経益〻明らかなり。六経明らかにして聖人の道に古今無し。夫れ然る後に天下得て治むべし。故に君子は必ず世を論ず。亦た唯だ物なり。
現代語訳
古代には聖人がいたが、今は聖人がいない。だから学問は必ず古を学ぶ。しかし古がなければ今もなく、今がなければ古もない。どうして今を捨ててよかろうか。代々の時代は互いに見渡し合っており、どれが古でなく、どれが今でないと言えよう。だから古に通じて基準を立て、今を知ってそれを身につける。時代ごとの違いを順に追ってその移り変わりを見れば、民の風俗や人情については、手のひらを見るようにはっきりわかるだろう。そもそも古と今とは違う。何によってその違いを見るのか。ただ物によってである。物は時代によって違い、時代は物によって違う。思うに秦・漢以後、聖人は現れていない。しかしそれぞれの時代に打ち立てたものがある。ただその知恵が物の全体に行き届かなかったことが、聖人がいない理由である。とはいえ、すでに物として残っているものがある。必ず史書の「志」(制度・文物の記録)に照らしてその違いを見、違い同士を照らし合わせてこそ、その時代を論じることができる。そうせずに一つの決まった物差しを掲げて百世の歴史をことごとく非難するのは、たやすいことにすぎない。それは自分だけを基準にして時代を問わないことであり、それでどうして歴史を論じられよう。だから今を知ろうとする者は必ず古に通じ、古に通じようとする者は必ず歴史を学び、歴史を学ぶには必ず「志」による。そうしてこそ六経はいっそう明らかになる。六経が明らかになれば、聖人の道に古今の区別はなくなる。そうなって初めて天下を治めることができる。だから君子は必ずその時代を論じる。これもまた、ただ物によるのである。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之五天下の事、上世の法は簡略にして、後世に至りて益詳密なり。学術制度の如き皆然り。此れ古今の気運の漸く開くるなり。自然の時勢、当に此くの如くなるべし。六経の説く所の者の如きは、其の大略なり。後儒世に出づるに至りて、其の説を為すや、漸く潤色を加へて詳細なり。漢魏以下の諸子及び宋の諸大儒の説く所の如き是れなり。然り而して後儒の説は精詳を加ふと雖も、皆是れ六経語孟の中に有る所の道理を、転た論述して漸く細密なる者なり。六経語孟の範囲の外に出づること能はず。然れども上世の聖人の説く所、其の簡略なる者は、差誤有るべからず。後世の諸儒の論ずる所、其の繁詳なる者は、或いは時として疎漏過誤有り。蓋し其の略なる者は、道理簡要にして、該閲する所周偏なり。其の詳なる者は、論説繁衍して、分析する所或いは過誤有るなり。暦学の如き、其の法後世に至りて益精しく、頗る古人の言ひ到らざる処有り。然れども虞書の中の数語暦象を説く者は、其の根源にして、後世の暦を説く者は、此の規模の外に出づること能はず。其の余の法術も亦皆此くの如し。
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徒然草・第22段何事も古き世のみぞ慕はしき。今様は無下に卑しくこそなり行くめれ。かの木の道の匠のつくれる美しき器も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。文の詞などぞ、昔の反古どもはいみじき。たゞいふ詞も、口惜しうこそなりもて行くなれ。古は、「車もたげよ。」「火掲げよ。」とこそいひしを、今やうの人は、「もてあげよ。」「かきあげよ。」といふ。主殿寮の「人数だて。」といふべきを、「立明し白くせよ。」といひ、最勝講の御聴聞所なるをば、「御講の廬。」とこそいふべきを、「講廬。」といふ、口をしとぞ、古き人の仰せられし。
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『慎思録』巻之六古人の説は簡要にして、後世を待ちて漸く詳備なる者有り。意ふに首めて創むる者は巧を成し難く、後に作る者は事を為し易きに因るか。此れ古人の才足らずして、今人の才余り有るに非ず。蓋し気運の開くるは漸を以てす。唐虞の聖世と雖も、道理一時に開明し尽くすこと能はず。必ず後世を待つ有り。是れ世変自然の時勢にして、然らざるを得ざるのみ。
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