慎思録 / 巻之二
古詩曰。四時更代謝。日月遞差馳。葢言歲月之易過也。况到暮齡。光陰如征箭。時節如流水。衰殘之軀。取樂之工夫。須以一日爲十日。以一月爲一年。若不然。縱雖幸天假百年如白駒過隙耳。殘喘須臾之際。苟徒爾而終身。雖悔恨噬臍。何益之有。
新字:古詩曰。四時更代謝。日月逓差馳。葢言歳月之易過也。況到暮齢。光陰如征箭。時節如流水。衰残之躯。取楽之工夫。須以一日為十日。以一月為一年。若不然。縦雖幸天仮百年如白駒過隙耳。残喘須臾之際。苟徒爾而終身。雖悔恨噬臍。何益之有。
書き下し
古詩に曰く、四時更々代謝し、日月遞に差馳す、と。蓋し歳月の過ぎ易きを言ふなり。況んや暮齢に到りては、光陰征箭の如く、時節流水の如し。衰残の軀、楽しみを取るの工夫は、須らく一日を以て十日と為し、一月を以て一年と為すべし。若し然らざれば、縦ひ幸ひに天百年を仮すと雖も白駒の隙を過ぐるが如きのみ。残喘須臾の際、苟も徒爾にして身を終へなば、悔恨噬臍すと雖も、何の益か之有らん。
現代語訳
古詩に「四季はかわるがわる移り変わり、日と月は次々に駆けていく」とあります。思うに年月の過ぎやすいことを言っています。まして老年に至れば、月日は飛ぶ矢のようで、季節は流れる水のようです。衰えた身が楽しみを得る工夫は、一日を十日とし、一月を一年とするようにすべきです。もしそうしなければ、たとえ幸いに天が百年の寿命を与えてくれても、白い馬が隙間を走り過ぎるように一瞬のことにすぎません。残り少ない命のわずかな間を、もし無駄に過ごして生涯を終えれば、臍をかむように悔やんでも、何の益がありましょう。
解説
老いて残る時間を、一日を十日のように大切に楽しめ、という晩年の益軒の実感がこもった条です。「白駒の隙を過ぐる」は『荘子』知北遊篇の言葉、「噬臍」は『春秋左氏伝』荘公六年に見える、臍をかむ後悔のたとえです。『養生訓』でも益軒は、老後の一日を大切にし楽しむことを説いています。時間の長さではなく密度が人生の豊かさを決める、という考えは、老年に限らず、忙しさに流されて日々を過ごしがちなすべての人に向けられています。
この章句が説くこと
光陰老い楽養生時間
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