慎思録 / 巻之二
孟子曰。人人有貴於己者。弗思耳。詩曰。既醉以酒。既飽以德。言飽乎仁義也。所以不願人之膏梁之味也。古語曰。名敎之內。自有樂地。愚謂。名敎之樂地。至乎大哉。無位而貴。無祿而富。無勢而崇。與世俗之所好聲色香味財利之樂。其大小高下。不可同日而語。然而斯樂君子之所獨知。而小人之所不能知也。
新字:孟子曰。人人有貴於己者。弗思耳。詩曰。既酔以酒。既飽以徳。言飽乎仁義也。所以不願人之膏梁之味也。古語曰。名教之内。自有楽地。愚謂。名教之楽地。至乎大哉。無位而貴。無禄而富。無勢而崇。与世俗之所好声色香味財利之楽。其大小高下。不可同日而語。然而斯楽君子之所独知。而小人之所不能知也。
書き下し
孟子曰く、人々己に貴き者有り。思はざるのみ、と。詩に曰く、既に酔ふに酒を以てし、既に飽くに徳を以てす、と。仁義に飽くを言ふなり。人の膏粱の味を願はざる所以なり。古語に曰く、名教の内、自ら楽地有り、と。愚謂ふ、名教の楽地は、至って大なるかな。位無くして貴く、禄無くして富み、勢無くして崇し。世俗の好む所の声色香味財利の楽しみと、其の大小高下、日を同じくして語るべからず。然り而して斯の楽しみは君子の独り知る所にして、小人の知ること能はざる所なり。
現代語訳
孟子は「人はだれでも自分の中に貴いものを持っている。ただそれを思わないだけだ」と言いました。『詩経』に「酒に酔い、徳に満ち足りた」とあります。仁義に満ち足りることを言っています。だから人のごちそうの味を願わないのです。古語に「名教(人倫の教え)の内に、おのずから楽しみの地がある」とあります。私が思うに、名教の楽しみの地は、この上なく大きいものです。地位がなくても貴く、俸禄がなくても豊かで、権勢がなくても高い。世俗の人が好む音楽・色・香り・味・財利の楽しみとは、その大小高下を同じ日に語ることはできません。しかしこの楽しみは君子だけが知るもので、小人には知ることができません。
解説
人の内にある貴さと、道を学ぶ楽しみを述べた条です。「人々己に貴き者有り、思はざるのみ」「既に酔ふに酒を以てし、既に飽くに徳を以てす」はいずれも『孟子』告子上に見え、後者はもと『詩経』大雅・既酔の句です。「名教の内、自ら楽地有り」は晋の楽広の言葉として『世説新語』徳行篇に見えます。外の物に頼らない楽しみを持つ人は、地位や収入の上下に振り回されにくい。自分の中にある貴いものに目を向けることを勧める一条です。
この章句が説くこと
楽仁義天爵名教富貴
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