慎思録 / 巻之二
古人曰。成名毎在窮苦日。敗事多因得志時。愚謂。此亦老子所謂禍兮福之所倚。福兮禍之所伏也。是倚伏之理。雖有禍不可憂。雖有福不可喜。是塞翁之意。
書き下し
古人曰く、名を成すは毎に窮苦の日に在り、事を敗るは多く志を得る時に因る、と。愚謂ふ、此れも亦た老子の所謂禍は福の倚る所、福は禍の伏す所なり。是れ倚伏の理なり。禍有りと雖も憂ふべからず。福有りと雖も喜ぶべからず。是れ塞翁の意なり。
現代語訳
古人は「名を成すのはいつも苦しい時であり、事をしくじるのは多くが得意の時である」と言いました。私が思うに、これもまた老子のいう「禍は福のよりかかる所、福は禍のひそむ所」ということです。これが禍福が寄りかかりひそみ合う理です。禍があっても憂えてはならず、福があっても喜んではなりません。これが塞翁の意味です。
解説
苦しい時に名は成り、得意の時に事は敗れる、という古人の言葉を、『老子』第五十八章の「禍は福の倚る所、福は禍の伏す所」と、『淮南子』人間訓の塞翁が馬の故事につなげた条です。禍と福が互いに入れ替わる「倚伏の理」は、東洋思想の中心的な考え方の一つです。仕事がうまくいっている時ほど慢心や見落としが生まれ、苦しい時ほど工夫と成長がある、という経験は誰にでもあるでしょう。浮かれず沈まず、という心の持ち方を教えてくれます。
この章句が説くこと
禍福倚伏塞翁慢心窮苦
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