慎思録 / 巻之二
異端何止楊墨佛老而已乎哉。管晏之覇術。申韓之刑名。孫呉之權謀。京房郭璞之術數。子莫之執中。王戎稽康之放達。陳氏之事功。東坡之不覊。陳白沙王守仁王龍溪之心學。鄕原之同乎流俗合乎汙世之屬。凡與堯舜之道不同流者。皆可稱異端。
新字:異端何止楊墨仏老而已乎哉。管晏之覇術。申韓之刑名。孫呉之権謀。京房郭璞之術数。子莫之執中。王戎稽康之放達。陳氏之事功。東坡之不覊。陳白沙王守仁王竜渓之心学。郷原之同乎流俗合乎汚世之属。凡与堯舜之道不同流者。皆可称異端。
書き下し
異端は何ぞ止だ楊墨仏老のみならんや。管晏の覇術、申韓の刑名、孫呉の権謀、京房郭璞の術数、子莫の執中、王戎稽康の放達、陳氏の事功、東坡の不羈、陳白沙王守仁王龍渓の心学、郷原の流俗に同じくし汚世に合ふの属、凡そ堯舜の道と流れを同じくせざる者は、皆異端と称すべし。
現代語訳
異端は楊朱・墨子・仏教・老子だけでしょうか。管仲・晏嬰の覇道の術、申不害・韓非の刑名の学、孫子・呉子の権謀、京房・郭璞の占いの術、子莫の中を執る説、王戎・嵆康の放縦、陳氏の功利の学、蘇東坡の奔放、陳白沙・王守仁・王龍渓の心学、郷原が世俗に同調し汚れた世に合わせる類など、およそ堯舜の道と流れを同じくしないものは、みな異端と称すべきです。
解説
異端の範囲を、楊墨仏老から覇術・法家・兵家・術数・清談・功利・心学まで広げた条です。子莫の執中は『孟子』尽心上、郷原は『論語』陽貨篇と『孟子』尽心下に見え、陳氏は事功の学を唱えた南宋の陳亮を指すと考えられます。陽明学までを異端とするのは、当時の朱子学者としての立場の表明です。現代から見れば狭い見方ですが、何を基準に正統と異端を分けるのかを明示している点は、自分の拠って立つ原則をはっきりさせることの意味を考えさせます。
この章句が説くこと
異端正統朱子学堯舜道
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