慎思録 / 巻之二
或曰。性者渾然一理。及發時。而後有仁義禮智之名。未發時。恐不可分爲四。予曰不然。人性固是渾然矣。其中不可有條理之界限。然有諸內。必形諸外。四端之發。可以占其在中者。苟未發之時。非其內有四者之理而具。則何以有四端之發乎外乎。
新字:或曰。性者渾然一理。及発時。而後有仁義礼智之名。未発時。恐不可分為四。予曰不然。人性固是渾然矣。其中不可有条理之界限。然有諸内。必形諸外。四端之発。可以占其在中者。苟未発之時。非其内有四者之理而具。則何以有四端之発乎外乎。
書き下し
或ひと曰く、性は渾然たる一理なり。発する時に及んで、而る後に仁義礼智の名有り。未発の時は、恐らくは分かちて四と為すべからず、と。予曰く、然らず。人の性は固より是れ渾然たり。其の中に条理の界限有るべからず。然れども諸を内に有すれば、必ず諸を外に形す。四端の発するは、以て其の中に在る者を占ふべし。苟も未発の時、其の内に四者の理有りて具はるに非ざれば、則ち何を以て四端の外に発すること有らんや。
現代語訳
ある人が「性は混然とした一つの理である。発した時になって初めて、仁義礼智の名がある。まだ発しない時には、おそらく四つに分けることはできないだろう」と言いました。私は言いました。「そうではありません。人の性はもちろん混然としています。その中に筋目の境があるわけではありません。しかし内にあるものは、必ず外に現れます。四端が発することによって、中にあるものを推し量ることができます。もしまだ発しない時に、その内に四つの理がそなわっていなければ、どうして四端が外に発することがありましょうか」。
解説
心が動く前の「未発」の性に、仁義礼智の区別があるかをめぐる問答です。四端は『孟子』公孫丑上の惻隠・羞悪・辞譲・是非の心で、それぞれ仁義礼智の端(いとぐち)とされます。「諸を内に有すれば必ず諸を外に形す」は『孟子』告子下の言葉です。外に現れる働きから、内にある性質を推し量るという考え方は、人を理解するときにも役立ちます。人の言動の奥にあるものを、目に見える表れから読み取る、という見方の基礎になります。
この章句が説くこと
性四端仁義礼智未発理
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