都鄙問答 / 卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段
曰、汝ハ理ヲ直ニ命ト云、是大ニ誤レリ、理ハ玉ノ理ナリ、又總テ物ノ理ナレバ、通マデノコトニテ死物ナリ、命ハ、書經ニモ、惟命不于常ト云ヘリ、天ノ降セル命ナレバ、活物ノ性ナリ、斯ノゴトク別ナリ、然ルヲ、死活ヲ以テ一致トスルハ如何ナルコトゾ、
新字:曰、汝ハ理ヲ直ニ命ト云、是大ニ誤レリ、理ハ玉ノ理ナリ、又総テ物ノ理ナレバ、通マデノコトニテ死物ナリ、命ハ、書経ニモ、惟命不于常ト云ヘリ、天ノ降セル命ナレバ、活物ノ性ナリ、斯ノゴトク別ナリ、然ルヲ、死活ヲ以テ一致トスルハ如何ナルコトゾ、
書き下し
曰く、汝は理を直ちに命と云ふ、是大いに誤れり。理は玉の理なり。又総て物の理なれば、通るまでのことにて死物なり。命は、書経にも、惟れ命は常に于てせずと云へり。天の降せる命なれば、活物の性なり。斯くのごとく別なり。然るを、死活を以て一致とするは如何なることぞ。
現代語訳
学者は言いました。「あなたは理をそのまま命だと言う。これは大きな誤りです。理とは玉の筋目のことです。物にはみな理があるとしても、筋が通っているというだけの、動かない死んだものです。命は、書経にも『天命は一定ではない』とあるように、天が下す命であって、生きて働くものです。このように別物なのに、死んだものと生きたものを一つだとするのはどういうことですか。」
解説
学者の反論は語の定義から攻めます。「理」の字はもと玉の筋目を磨き出すことで、筋が通っているというだけの静的なもの、対して「命」は書経(康誥など)に「惟れ命は常に于てせず」とあるように、天が下して変わりうる動的なものだ、という区別です。文字の成り立ちや経書の用例に拠る、当時の儒者らしい議論です。梅岩はこのあと、この問い方そのものが文字にとらわれていると応じます。定義の厳密さと、物事の本体をつかむことの違いが、ここからの争点になります。
この章句が説くこと
理命書経定義儒者
関連する章句
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『呻吟語』内篇・應務・理を推して是れ視る時勢を以て理を低昂する者は、眾人なり。理を以て時勢を低昂する者は、賢人なり。理を推して是れ視、低昂する所無き者は、聖人なり。
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『呻吟語』外篇・品藻・惟だ其の理のみ勢の為す可からずして猶ほ之を為す者有るは、惟だ其の理のみ。此を知らば則ち三仁は五臣と事功を比す可く、孔子は堯・舜と政治を較ぶ可し。
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『呻吟語』内篇・談道・勢は帝王の權、理は聖人の權公卿朝に爭議するに、天子に命有りと曰へば、則ち屏然として敢へて屈直せず。師儒學に相辯ずるに、孔子に言有りと曰へば、則ち寂然として敢へて異同せず。故に天地の間、惟だ理と勢とを最尊と為す。然りと雖も、理は又尊の尊なり。廟堂の上に理を言へば、則ち天子も勢を以て相奪ふを得ず。即し相奪ふとも、理は則ち常に天下萬世に伸ぶ。故に勢は、帝王の權なり。理は、聖人の權なり。帝王に聖人の理無くんば、則ち其の權時有りて屈す。然らば則ち理なる者は、又勢の恃みて以て存亡を為す所なり。莫大の權を以て僭竊の禁無し。此れ儒者の辭せずして敢へて斯道の南面に任ずる所以なり。
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『呻吟語』内篇・談道・理一にして氣・勢・利は三なり先天は、理のみ。後天は、氣のみ。天下は、勢のみ。人情は、利のみ。理は一にして、氣・勢・利は三なり。勝負知る可し。
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『呻吟語』内篇・應務・理を貶せず、又た人を駭かさず君子の事に處するに真見有るも、遽かに行はざるなり。又た眾見を驗し、眾情を察し、諸を理に協へて協ひ、諸を眾情・眾見に協へて協へば、則ち斷じて以て必ず行ふ。果たして理は當然にして、眾情・眾見の協はざるや、又た委曲して以て吾が理を行ふ。既に理を貶せず、又た人を駭かさず。此れを之れ理術と謂ふ。噫、惟だ聖人のみ之を能くす。獵較の類是れなり。
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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段仁とも云ふ。総ていへば一物なり。乾は元亨利貞といふが如し。乾は理なり、元亨利貞は命なり、体用の謂なり。文字を離れて察せよ。理と命と名は二つあれども、一なることを知るべし。譬へば川と淵との如し。流るる所にては川といひ、溜る所にては淵と云ふ。理は淵の如く、命は川の如し。動静有りて一なり。公伯寮、子路を季孫に愬ふ。子曰く、道の将に行はれんとするや、命なり。道の将に廃れんとするや、命なり。孟子曰く、命に非ざるは莫しと。孔子孟子ともに、道の行はるるも廃るも、治乱ともに、皆命なりとのたまへば、命は天の行はるる総名なり。理は其の体なること決せり。昔者聖人の易を作るや、将に以て性命の理に順はんとす。是を以て天の道を立てて陰と陽と曰ひ、地の道を立てて剛と柔と曰ひ、人の道を立てて仁と義と曰ふ。三才を兼ねて之を両にす。