慎思録 / 巻之二
草木子曰。豐其實者。嗇其花。愚謂。此言物無全美也。今考驗諸草木。皆然。黍稻之爲嘉穀也。瓜茄之爲佳蔬也。橘柑栗柿棗椎之爲佳果也。皆實之美者。而其花反不足觀。如海棠白櫻山茶牡丹芍藥菊水仙之類。皆花之美者。而其實不堪啖。人巧言如流者。其所行多不實。此無全美也。
新字:草木子曰。豊其実者。嗇其花。愚謂。此言物無全美也。今考験諸草木。皆然。黍稲之為嘉穀也。瓜茄之為佳蔬也。橘柑栗柿棗椎之為佳果也。皆実之美者。而其花反不足観。如海棠白桜山茶牡丹芍薬菊水仙之類。皆花之美者。而其実不堪啖。人巧言如流者。其所行多不実。此無全美也。
書き下し
草木子に曰く、其の実を豊かにする者は、其の花を嗇しむ、と。愚謂ふ、此れ物に全美無きを言ふなり。今諸を草木に考験するに、皆然り。黍稲の嘉穀為る、瓜茄の佳蔬為る、橘柑栗柿棗椎の佳果為る、皆実の美なる者なり。而して其の花は反って観るに足らず。海棠白桜山茶牡丹芍薬菊水仙の類の如きは、皆花の美なる者なり。而して其の実は啖ふに堪へず。人の巧言流るるが如き者は、其の行ふ所多く実ならず。此れ全美無きなり。
現代語訳
『草木子』に「実を豊かにするものは、花を惜しむ」とあります。私が思うに、これは物に完全な美はないことを言っています。今これを草木で確かめてみると、みなそのとおりです。黍や稲がよい穀物であり、瓜や茄子がよい野菜であり、橘・柑子・栗・柿・棗・椎がよい果物であるのは、みな実が美しいものです。しかしその花はかえって見るに足りません。海棠・白桜・山茶花・牡丹・芍薬・菊・水仙の類は、みな花が美しいものです。しかしその実は食べられません。人でも、言葉が流れるように巧みな者は、その行いが多く実を伴いません。これも完全な美はないということです。
解説
明の葉子奇の『草木子』の一句を、本草学者の益軒が実際の草木で確かめ、人の言行にまで広げた条です。穀物・野菜・果物と花の名を具体的に並べるところに、『大和本草』の著者の観察眼が表れています。結びは『論語』学而篇の「巧言令色、鮮なし仁」と響き合います。話のうまい人が必ずしも実行の人ではないこと、また自分にも得手不得手があり全部をそろえる必要はないこと、の両方を教えてくれる一条です。
この章句が説くこと
全美実巧言観察草木
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・談道・幽に處りて明を燭らすを神照と謂ふ明に處りて幽を燭らせば、未だ物を見る能はずして物先に之を見る。幽に處りて明を燭らす、是れを神照と謂ふ。是の故に言はざる者は喑に非ず、視ざる者は盲に非ず、聽かざる者は聾に非ず。
-
人物志・八觀七に曰く、其の短なる所を観て、以て長なる所を知る。
-
『学問のすゝめ』十二編・演説の法を勧むるの説・視察、推究、読書、談話、著書、演説ゆえに学問の本趣意は読書のみにあらずして、精神の働きにあり。この働きを活用して実地に施すにはさまざまの工夫なかるべからず。オブセルウェーションとは事物を視察することなり。リーゾニングとは事物の道理を推究して自分の説を付くることなり。この二ヵ条にてはもとよりいまだ学問の方便を尽くしたりと言うべからず。なおこのほかに書を読まざるべからず、書を著わさざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かいて言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽くしてはじめて学問を勉強する人と言うべし。すなわち視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書、演説はもって智見を散ずるの術なり。然りしこうしてこの諸術のうちに、あるいは一人の私をもって能くすべきものありといえども、談話と演説とに至りては必ずしも人とともにせざるを得ず。演説会の要用なることもって知るべきなり。
-
人物志・自序其の安んずる所を察し、其の由る所を觀て、以て居止の行を知る。
-
孫子・行軍篇令素より行われて以て其の民を教うれば、則ち民服す。令素より行われずして以て其の民を教うれば、則ち民服せず。令素より行わるる者は、衆と相得るなり。
-
『呻吟語』内篇・問學・怠惰の時に工夫を看る怠惰の時に工夫を看、脫略の時に點檢を看、喜怒の時に涵養を看、患難の時に力量を看る。