慎思録 / 巻之二
仁者。心之德。愛之理。朱子答張敬夫書曰。愛之理者。是乃指其體性而言。篤信謂。仁有體用。然心之德。固體也。愛之理。亦指其體性而言。則不屬于用。倶以仁體爲言。雲峯胡氏以心之德爲體。以愛之理爲用者。非也。近看孫詒仲四書約言。曰。事之宜。亦非是用。謂處事之宜在於心。倶以未發言。事之宜。與愛之理。一樣。猶曰宜之理爾。愚謂。如孫說。則事之宜。亦不可屬乎用。
新字:仁者。心之徳。愛之理。朱子答張敬夫書曰。愛之理者。是乃指其体性而言。篤信謂。仁有体用。然心之徳。固体也。愛之理。亦指其体性而言。則不属于用。倶以仁体為言。雲峯胡氏以心之徳為体。以愛之理為用者。非也。近看孫詒仲四書約言。曰。事之宜。亦非是用。謂処事之宜在於心。倶以未発言。事之宜。与愛之理。一様。猶曰宜之理爾。愚謂。如孫説。則事之宜。亦不可属乎用。
書き下し
仁は心の徳、愛の理なり。朱子の張敬夫に答ふる書に曰く、愛の理とは、是れ乃ち其の体性を指して言ふ、と。篤信謂ふ、仁に体用有り。然れども心の徳は固より体なり。愛の理も亦た其の体性を指して言へば、則ち用に属せず。倶に仁の体を以て言を為す。雲峯胡氏の心の徳を以て体と為し、愛の理を以て用と為す者は非なり。近ごろ孫詒仲の四書約言を看るに、曰く、事の宜も亦た是れ用に非ず、と。謂ふこころは、事を処するの宜は心に在り、倶に未発を以て言ふ。事の宜と愛の理とは一様なり。猶ほ宜の理と曰ふがごときのみ。愚謂へらく、孫の説の如くんば、則ち事の宜も亦た用に属すべからず。
現代語訳
仁は「心の徳、愛の理」です。朱子が張敬夫(張栻)に答えた手紙に「愛の理とは、その本体としての性質を指して言うのだ」とあります。私篤信が思うに、仁には体(本体)と用(働き)があります。しかし「心の徳」はもちろん体です。「愛の理」もまたその本体の性質を指して言うのですから、用には属しません。どちらも仁の体として言っているのです。雲峯胡氏(胡炳文)が「心の徳」を体とし、「愛の理」を用としたのは誤りです。近ごろ孫詒仲の『四書約言』を見ると、「事の宜(義の定義)もまた用ではない」とあります。事を処理する宜しさは心にあり、どちらも未発(心が動く前)について言っている、というのです。「事の宜」と「愛の理」は同じ形で、「宜の理」と言うようなものです。私の考えでは、孫の説のとおりなら、「事の宜」も用に属させてはなりません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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論語・里仁篇子曰わく、ただ仁者のみよく人を好み、よく人を悪む。
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『慎思録』巻之六人、奴僕を使ふの道に於いて、往往心を用ゐず、常に忽略す。夫れ仁者は愛せざること無し。況んや我が僮僕に於いてをや。今日用至近の事を察せざるは、何ぞ思はざるの甚だしきや。此れ之を其の賤悪する所に辟すと謂ふべし。陶淵明、一力を送りて其の子に給する書に曰く、此れも亦人の子なり、善く之を遇すべしと。此の言以て法と為すべし。
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『慎思録』巻之一仲虺の誥に曰く、克く寛に克く仁に、信を兆民に彰かにすと。六経の仁信を言ふは、此に始まる。又曰く、義を以て事を制し、礼を以て心を制すと。六経の義礼を言ふは、此に始まる。又曰く、天乃ち王に勇智を錫ふと。六経の智勇を言ふは、此に始まる。湯誥に曰く、惟れ皇いなる上帝、衷を下民に降す。恒の性有るに若ひ、克く厥の猷を綏んずるは、惟れ后なりと。六経の性を言ふは、此に始まる。太甲に曰く、鬼神は常に享くること無し、克く誠なるに享くと。六経の誠を言ふは、此に始まる。
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司馬法・仁本古者(いにしえ)は仁を以て本と為し、義を以てこれを治め、これを治めて正と為す。
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『武士道』第五章 仁・愛不忍の心・義に過ぐれば固くなる而して又たここに予の、更に此問題に就きて一引証を加ふることを許せ。されば近時独逸皇帝の、コブレンツに於てせる演説の一句を挙げんか。曰く、『神恩によつて王たるものは、之に伴ふ重大なる責任あり。而してひとり、造物主に対して甚大なる責務を有し、人も大臣も国会も、君王をして能く此れより免れしむること能はず』と。仁は温和なる徳なり、母の心なり。端正なる節義、厳厲なる公正を以て男性的なりとせば、仁愛の柔和にして人を服するは、即ち女性的なりと云ふを得べきか。されど仁愛に加ふるに正義を以てせずして、漫に之に流るるは、人の深く戒むべき所にして、伊達政宗の言にも是れあり、『義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる』と。仁は美はしくて又た遍し。