慎思録 / 巻之二
邵子以十二會說天地之始終。其說雖似乎象罔。然識者以數所考。理或然。楊升菴極口誹邵子說者。予亦不敢信。凡萬物皆有始終。天地亦一物爾。豈無始終乎。予嘗見高山之上。有蚌蠣殼而附巨石。是前天地之物不消滅。此知雖天地。亦有變易生滅也。
新字:邵子以十二会説天地之始終。其説雖似乎象罔。然識者以数所考。理或然。楊升菴極口誹邵子説者。予亦不敢信。凡万物皆有始終。天地亦一物爾。豈無始終乎。予嘗見高山之上。有蚌蠣殼而附巨石。是前天地之物不消滅。此知雖天地。亦有変易生滅也。
書き下し
邵子は十二会を以て天地の始終を説く。其の説は象罔に似たりと雖も、然れども識者は数を以て考ふる所、理或いは然らん。楊升菴は口を極めて邵子の説を誹る者なり。予も亦た敢へて信ぜず。凡そ万物には皆始終有り。天地も亦た一物なるのみ。豈に始終無からんや。予嘗て高山の上に蚌蠣の殻有りて巨石に附くを見る。是れ前の天地の物、消滅せざるなり。此に天地と雖も、亦た変易生滅有ることを知るなり。
現代語訳
邵子は十二会によって天地の始まりと終わりを説きました。その説はとりとめがないようにも見えますが、見識のある人が数によって考えたところでは、理はあるいはそうかもしれません。楊升菴は口を極めて邵子の説をそしりましたが、私はそれをあえて信じません。およそ万物にはみな始まりと終わりがあります。天地もまた一つの物にすぎません。どうして始まりと終わりがないことがありましょう。私はかつて高い山の上に、ハマグリやカキの殻が大きな岩にくっついているのを見ました。これは前の天地の物が消えずに残っているのです。これによって、天地であっても変わり移り、生じ滅びることがあると知るのです。
解説
前条に続き邵雍の十二会説を論じ、明の楊慎(升菴)の批判をしりぞけます。注目すべきは、高山の岩に付いた貝殻という自分の目で見た証拠を挙げていることです。朱子も『朱子語類』で高山の螺蚌殻から天地の変化を論じており、益軒はその観察を自ら確かめた形です。化石から大地の変動を読む発想は、後の地質学につながるものでした。権威ある説でも鵜呑みにせず、身近な事実から考え直す姿勢は、どんな分野の学びにも欠かせません。
この章句が説くこと
天地観察変易始終格物
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