慎思録 / 巻之一
孔顏之樂。與吟風弄月之樂爲不同者。何也。葢以孔顏之樂不在乎外也。然吟風弄月之樂雖在外。亦可以資吾之樂。非內外不相干涉者也。
新字:孔顔之楽。与吟風弄月之楽為不同者。何也。葢以孔顔之楽不在乎外也。然吟風弄月之楽雖在外。亦可以資吾之楽。非内外不相干渉者也。
書き下し
孔顔の楽しみと、吟風弄月の楽しみとの同じからずと為す者は、何ぞや。蓋し孔顔の楽しみは外に在らざるを以てなり。然れども吟風弄月の楽しみは外に在りと雖も、亦以て吾が楽しみを資くべし。内外相干渉せざる者に非ざるなり。
現代語訳
孔子と顔回の楽しみと、風を吟じ月を愛でる楽しみとが同じでないとされるのはなぜでしょうか。孔子と顔回の楽しみは外にはないからです。しかし風を吟じ月を愛でる楽しみは外にあっても、自分の楽しみを助けることができます。内と外が互いに関わり合わないものではないのです。
解説
内なる楽しみと外の風雅の楽しみの関係を短くまとめた条です。「吟風弄月」は程明道が、周敦頤に会って帰ったのち、風を吟じ月を弄んで帰り、孔子が曾点に与した心境を得たと語ったことに由来する言葉です。益軒は、孔顔の楽しみは内にあるとしつつ、外の風雅も内の楽しみを助けると言い、両者を切り離しません。朱子学を厳格に守りながら、和歌や自然を愛した益軒の人柄がうかがえます。心の充実と趣味の楽しみは、互いに支え合うものなのです。
この章句が説くこと
楽孔顔吟風弄月内外程明道
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