慎思録 / 巻之一
君子之心。有本然之樂。是人心之所固有。天性之自然也。如花月之悅目。聲樂之娛耳之類。是特藉外物。而助吾之樂也。非專以是爲樂之主。苟心失本然之樂。而徒欲以身外之尤物爲悅樂。是以外物爲樂之主。所以惑而不樂。非君子之所爲樂也。
新字:君子之心。有本然之楽。是人心之所固有。天性之自然也。如花月之悦目。声楽之娯耳之類。是特藉外物。而助吾之楽也。非専以是為楽之主。苟心失本然之楽。而徒欲以身外之尤物為悦楽。是以外物為楽之主。所以惑而不楽。非君子之所為楽也。
書き下し
君子の心に、本然の楽しみ有り。是れ人心の固有する所、天性の自然なり。花月の目を悦ばしめ、声楽の耳を娯しましむるの類の如きは、是れ特に外物を藉りて、吾が楽しみを助くるなり。専ら是を以て楽しみの主と為すに非ず。苟も心本然の楽しみを失ひて、徒らに身外の尤物を以て悦楽と為さんと欲するは、是れ外物を以て楽しみの主と為す。惑ひて楽しまざる所以なり。君子の楽しみと為す所に非ざるなり。
現代語訳
君子の心には本来の楽しみがあります。これは人の心がもともと持っているもので、天性の自然です。花や月が目を喜ばせ、音楽が耳を楽しませるようなものは、ただ外の物を借りて自分の楽しみを助けるものです。もっぱらこれを楽しみの主とするのではありません。もし心が本来の楽しみを失って、ただ身の外の珍しい物を喜び楽しみとしようとするなら、それは外の物を楽しみの主とすることです。それが惑って楽しめない理由で、君子が楽しみとするものではありません。
解説
前条の考えを、楽しみの主と従という言葉で整理した条です。花や月、音楽は楽しみを助ける従であって主ではない、主は心にもともとある楽しみだと益軒は言います。「尤物」は並外れて優れた珍しい物で、人の心を惑わすものとして古典にしばしば現れる語です。趣味や娯楽そのものを否定しているのではなく、それに頼り切ると、もっと強い刺激を求めて満たされなくなるという指摘です。買い物や娯楽で気晴らしをしても心が晴れないときに、思い出したい一条です。
この章句が説くこと
楽本然外物君子惑い
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