慎思録 / 巻之一
人之心。有本然之樂。則目之所睹。耳之所聽。身之所觸。風花雪月四時之佳興。山川之好景。鳥獸之和鳴。草木之榮華。凡滿天地之間者。皆足以資吾本然之樂。是以擧天下之物。皆可以爲悅吾心養吾身之具。其富饒也。終身不可用盡。惟非藉外物之美以爲吾樂。外物之美來觸。而資吾本然之樂而巳。苟無本然之樂。則外物之奉我身誘我欲者。適足以爲累吾心傷吾身之具而已。何足以爲樂哉。
新字:人之心。有本然之楽。則目之所睹。耳之所聴。身之所触。風花雪月四時之佳興。山川之好景。鳥獣之和鳴。草木之栄華。凡満天地之間者。皆足以資吾本然之楽。是以挙天下之物。皆可以為悦吾心養吾身之具。其富饒也。終身不可用尽。惟非藉外物之美以為吾楽。外物之美来触。而資吾本然之楽而巳。苟無本然之楽。則外物之奉我身誘我欲者。適足以為累吾心傷吾身之具而已。何足以為楽哉。
書き下し
人の心に、本然の楽しみ有れば、則ち目の睹る所、耳の聴く所、身の触るる所、風花雪月四時の佳興、山川の好景、鳥獣の和鳴、草木の栄華、凡そ天地の間に満つる者は、皆以て吾が本然の楽しみを資くるに足る。是を以て天下の物を挙げて、皆以て吾が心を悦ばしめ吾が身を養ふの具と為すべし。其の富饒なるや、終身用ひ尽くすべからず。惟外物の美を藉りて以て吾が楽しみと為すに非ず。外物の美来たり触れて、吾が本然の楽しみを資くるのみ。苟も本然の楽しみ無ければ、則ち外物の我が身に奉じ我が欲を誘ふ者は、適に以て吾が心を累はし吾が身を傷ふの具と為すに足るのみ。何ぞ以て楽しみと為すに足らんや。
現代語訳
人の心に本来の楽しみがあれば、目に見るもの、耳に聞くもの、身に触れるもの、風・花・雪・月や四季の趣、山や川の美しい景色、鳥や獣の和やかな鳴き声、草木の花や茂り、およそ天地の間に満ちているものはみな、自分の本来の楽しみを助けるのに足ります。だから天下の物をすべて、自分の心を喜ばせ身を養う道具とすることができます。その豊かさは、一生かかっても使い尽くせません。ただし外の物の美しさを借りて自分の楽しみとするのではありません。外の物の美しさがやって来て触れ、自分の本来の楽しみを助けるだけです。もし本来の楽しみがなければ、身に奉仕し欲を誘う外の物は、かえって心を煩わせ身を損なう道具にしかなりません。どうして楽しみとするに足りましょう。
解説
この章句が説くこと
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