慎思録 / 巻之一
不尊德性。而徇物慾。譬如以隋侯之玉。彈千仞之雀。方見不知其輕重貴賤。愚之甚也。常人不知吾性本是天地之性。而自爲下愚之趣。却把吾心。處汚賤下流之地了。可謂穢天之明。嫚人之紀。乃自暴自棄之甚也。
新字:不尊徳性。而徇物慾。譬如以隋侯之玉。弾千仞之雀。方見不知其軽重貴賤。愚之甚也。常人不知吾性本是天地之性。而自為下愚之趣。却把吾心。処汚賤下流之地了。可謂穢天之明。嫚人之紀。乃自暴自棄之甚也。
書き下し
徳性を尊ばずして、物欲に徇ふは、譬へば隋侯の玉を以て、千仞の雀を弾くが如し。方に其の軽重貴賤を知らざるを見る。愚の甚だしきなり。常人は吾が性の本是れ天地の性なるを知らずして、自ら下愚の趣を為し、却りて吾が心を把りて、汚賤下流の地に処らしめ了る。天の明を穢し、人の紀を嫚ると謂ふべし。乃ち自暴自棄の甚だしきなり。
現代語訳
徳性を尊ばずに物欲に従うのは、たとえば隋侯の宝玉で、千仞の高さを飛ぶ雀を弾くようなものです。まさにその軽重と貴賤を知らないことが見てとれます。はなはだ愚かです。普通の人は、自分の性がもともと天地の性であることを知らず、自ら愚か者の道を進み、かえって自分の心を汚れた卑しい下流の場所に置いてしまいます。天の明を汚し、人の道を侮るものと言うべきです。自暴自棄の極みです。
解説
かけがえのない徳性を、つまらない欲のために使い捨てる愚かさを説いた条です。隋侯の珠で雀を弾つたとえは『荘子』譲王篇にあり、得るものに比べて失うものがあまりに大きいことを言います。「徳性を尊ぶ」は『中庸』第二十七章の言葉、「自暴自棄」は『孟子』離婁上篇に由来します。益軒は、自分の本性が天地から授かった尊いものだと知らないことが、自分を粗末に扱う原因だと言います。一時の快楽のために健康や信用を損なう行いを戒める、今にも通じる教えです。
この章句が説くこと
徳性物欲自暴自棄性荘子
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