慎思録 / 巻之一
或問。雜念紛擾。爲心術之害。除之之方奈何。曰。心有主而專一。則自無此患。君子敎人。以豫爲貴。豫之道。當於童蒙之時。易曰。蒙以養正。聖之功也。賈誼曰。太子之善。在於早敎諭。與選左右。顏之推曰。敎兒於嬰孩。誨婦於初來。皆是豫之道也。豫之道。即小學之法也。
新字:或問。雑念紛擾。為心術之害。除之之方奈何。曰。心有主而専一。則自無此患。君子教人。以予為貴。予之道。当於童蒙之時。易曰。蒙以養正。聖之功也。賈誼曰。太子之善。在於早教諭。与選左右。顔之推曰。教児於嬰孩。誨婦於初来。皆是予之道也。予之道。即小学之法也。
書き下し
或ひと問ふ、雑念紛擾は、心術の害為り。之を除くの方は奈何と。曰く、心に主有りて専一なれば、則ち自ら此の患ひ無し。君子の人を教ふるは、予を以て貴しと為す。予の道は、当に童蒙の時に於てすべし。易に曰く、蒙以て正を養ふは、聖の功なりと。賈誼曰く、太子の善は、早く教諭すると、左右を選ぶとに在りと。顔之推曰く、児を嬰孩に教へ、婦を初来に誨ふと。皆是れ予の道なり。予の道は、即ち小学の法なり。
現代語訳
ある人が問いました。「雑念が入り乱れるのは、心の持ち方の害です。これを除く方法はどうすればよいでしょう」。答えて言います。心に主があって専一であれば、自然にこの心配はなくなります。君子が人を教えるときは、予め教えることを尊びます。予め教える道は、幼い子どもの時に行うべきです。『易経』に「幼いうちに正しさを養うのは、聖人の功である」とあります。賈誼は「太子が善くなるのは、早く教え諭すことと、身の回りの人を選ぶことにある」と言いました。顔之推は「子どもは幼児のうちに教え、嫁は来たばかりのうちに教える」と言いました。どれも予め教える道です。予め教える道とは、小学の法のことです。
解説
雑念を除く根本策を、心の主を定めることと、幼い時からの教育に求めた条です。「予」は悪い習いが生じる前に教えておくことで、『礼記』学記篇の「未だ発せざるに禁ずる、之を予と謂ふ」に基づきます。「蒙以て正を養ふは聖の功」は『易経』蒙卦の彖伝、賈誼の言葉は『漢書』賈誼伝の上疏に見え、顔之推の言葉は『顔氏家訓』教子篇にあります。益軒は『和俗童子訓』で早期教育を説きました。心の習慣は早いうちに形づくられるという知見は、今の子育てにも通じます。
この章句が説くこと
雑念専一予教育小学
関連する章句
-
『慎思録』巻之三人の父兄為る者は、子弟の嗜好する所を択びて、早く其の淫僻を誡むべし。姑息にして其の好む所を縦にすべからず。是れ乃ち閑して家を有ち、悔亡ぶの道なり。蓋し志淫なる者は、必ず僻を好む。苟も陥溺すること久しければ、則ち之を戒むること切なりと雖も、扞格して入り難し。早く戒めざるべからず。
-
『慎思録』巻之三朱子、古昔聖人の人に教へて学を為さしむるの遺意を纂輯して、小学の書を作り、以て幼学の軌範と為す。凡そ天下の事は、当に始に慎むべし。是を以て初学の要は、趣向を正し規矩に循ふを以て先と為す。是れ古人の小学の教有る所以にして、所謂蒙以て正を養ふは、聖の功なり。夫れ小学の書は、是れ人と做るの則にして、修身の大法備はる。然らば則ち豈に啻に幼学の当に従事すべき所のみならんや。抑も亦以て終身朝夕循守して廃せざるべし。凡そ初学の徒、先づ此に従事して、其の趣向を正し、其の規矩に循へば、則ち漸く放心を収め、徳性を養ひて、他日多く見多く聞きて、天下国家の事物に泛く応ずる所以の基本、此に於て立つ。苟も此の如くならずして、徒らに口耳の習に溺れ、規矩の外に放浪せば、豈に君子の学と為すべけんや。毫釐の差も、尚ほ千里の謬と為る。其の始は早く弁ぜざるべからず。
-
『慎思録』巻之五衆人の生や、十歳より弱冠に到るまで、其の知識日に漸く長じ、情慾も亦浸く盛んなり。異物を見て遷る。其の賢知愚不肖、此の時に於て定まる。故に十歳以上二十歳に到るまでは、教戒禁防、最も無かるべからざるの時なり。姑息を為して驕惰を縦にすべからず。苟も此の時に於て空しく放過して教戒無ければ、則ち習ひ智と長じ、化心と成りて、扞格して勝へざるに至り、遂に終身の凶悪を養成し了らん。畏れざるべけんや。
-
『慎思録』巻之一子弟の輩、放蕩無頼の客と往来すれば、則ち彼が為に倡誘せられて、非僻に陥らざる者鮮し。故に子弟を教ふるは、須らく友を択ぶを以て先と為すべし。朱子曰く、劉元城謂へること有り。曰く、子弟は寧ろ終歳書を読まざるべし。一日も小人に近づくべからずと。此の言極めて理有り。夫れ子弟の終歳書を読まざるは、固より太だ佳からずと為すべし。然れども一日小人に近づけば、則ち其の禍量るべからず。豈に終歳書を読まざるの比ならんや。然らば則ち子弟の交游、祗み懼れて審らかに択ばざるべけんや。豈に啻だ友に交はるのみならんや。子弟の左右の僕従と雖も、亦択ばざるべからず。蓋し少年は未だ定見有らず、言を聞けば則ち遷り易し。憸邪の言、便佞の説、入り易し。恐れざるべけんや。
-
『慎思録』巻之一衆人の不善を為して、将に禍有らんとするや、其の非を悔い其の過ちを改むることを知らず、特に神に禱り仏に媚ぶるを負みて、罪を遠ざけんと欲す。禍を免るること難し。此れ禍福報応の理に暗きに因るなり。人を教ふるの道は、子弟卑幼の輩の愚不肖と雖も、忿厲激怒するは宜しからず。唯厳粛従容として、丁寧に告げ戒め、循循として誘引す。是れ能く人材を養成する所以なり。故に曰く、中や不中を養ひ、才や不才を養ふと。詩に曰く、載ち色し載ち笑ふ、怒るに匪ず伊れ教ふと。是れ乃ち人を教ふるの道、宜しく此くの如くなるべし。若し忿怒罵詈すれば、則ち人も亦払戻扞格して、教へを容れず。人材を教育すること能はざる所以なり。
-
『慎思録』巻之五文中子曰く、雑学せず、故に明らかなり、と。蓋し学を為すこと純一にして雑ならざれば、則ち義理に通徹して、蔽昧の患無し。其の理豈に光明ならざるを得んや。学を為すこと専一ならざれば、則ち其の志立たず、其の功成らず。故に学は専一を貴ぶ。程子曰く、専一ならざれば、則ち直遂すること能はず、と。是れ必然の理なり。小道に於ても亦然り。況んや大道に於てをや。専一とは、心を用ゐること分かたざるの謂なり。