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慎思録 / 巻之一

程子曰。凡人避嫌者。皆內不足也。如避嫌事。賢者且不爲。况聖人乎。篤信謂。程子之言。以避嫌則有害於義者言之。葢見義而必爲者。不畏嫌疑也。避嫌有害於義者。如漢文帝以后弟竇廣國賢有行。欲相之。曰恐天下以吾私廣國。久念爲不可之類。是也。文帝之避嫌也。雖與私外戚者不同。然唯畏人之疑。而不以至公擧之。是亦私意而巳。復有以避嫌爲善者。禮曰。嫂叔不通問。非祭非喪。不相授器。且如古詩謂瓜田不納履。李下不正冠。是皆言不可居嫌疑之際也。如晋陳壽居喪而有病。使婢丸藥之事。亦可以爲戒。豈可以避嫌。槩乎爲不可乎。

新字:程子曰。凡人避嫌者。皆内不足也。如避嫌事。賢者且不為。況聖人乎。篤信謂。程子之言。以避嫌則有害於義者言之。葢見義而必為者。不畏嫌疑也。避嫌有害於義者。如漢文帝以后弟竇広国賢有行。欲相之。曰恐天下以吾私広国。久念為不可之類。是也。文帝之避嫌也。雖与私外戚者不同。然唯畏人之疑。而不以至公挙之。是亦私意而巳。復有以避嫌為善者。礼曰。嫂叔不通問。非祭非喪。不相授器。且如古詩謂瓜田不納履。李下不正冠。是皆言不可居嫌疑之際也。如晋陳寿居喪而有病。使婢丸薬之事。亦可以為戒。豈可以避嫌。槩乎為不可乎。

書き下し

程子曰く、凡そ人の嫌を避くる者は、皆内足らざるなり。嫌を避くる事の如きは、賢者すら且つ為さず。況んや聖人をやと。篤信謂へらく、程子の言は、嫌を避くれば則ち義に害有る者を以て之を言ふ。蓋し義を見て必ず為す者は、嫌疑を畏れざるなり。嫌を避けて義に害有る者は、漢の文帝、后の弟竇広国賢にして行ひ有るを以て、之を相とせんと欲して、曰く、恐らくは天下吾を以て広国に私すと為さんと。久しく念ひて不可と為すの類の如き、是れなり。文帝の嫌を避くるや、外戚に私する者と同じからずと雖も、然れども唯人の疑ひを畏れて、至公を以て之を挙げず。是れも亦私意のみ。復た嫌を避くるを以て善と為す者有り。礼に曰く、嫂叔は問を通ぜず。祭に非ず喪に非ざれば、器を相授けずと。且つ古詩に、瓜田に履を納れず、李下に冠を正さずと謂ふが如き、是れ皆嫌疑の際に居るべからざるを言ふなり。晋の陳寿、喪に居りて病有り、婢をして薬を丸めしむるの事の如きも、亦以て戒めと為すべし。豈に嫌を避くるを以て、概して不可と為すべけんや。

現代語訳

程子は「およそ人が疑いを避けようとするのは、みな内面が足りないからである。疑いを避けるようなことは、賢者でさえしない。まして聖人はなおさらだ」と言いました。私篤信が思うに、程子の言葉は、疑いを避けると義を損なう場合について言ったものです。義を見て必ず行う者は、疑いを恐れません。疑いを避けて義を損なう例は、漢の文帝が、皇后の弟の竇広国が賢く行いも立派なので宰相にしようとしながら、「天下の人が私が広国をえこひいきしたと思うのではないか」と言い、長く考えて取りやめた、というような類です。文帝の避け方は、外戚をえこひいきする者とは違いますが、ただ人の疑いを恐れて、公正の極みで人を挙げなかったのですから、これも私心にすぎません。一方で、疑いを避けることを善とする場合もあります。『礼記』に「兄嫁と義弟は互いに安否を問わず、祭りや喪でなければ器を手渡ししない」とあり、また古詩に「瓜畑で靴を履き直さず、すももの木の下で冠を正さない」とあるのは、どれも疑われる状況に身を置いてはならないということです。晋の陳寿が喪中に病気になり、召使いの女に丸薬を作らせたことで非難された件も、戒めとすべきです。どうして疑いを避けることを、一概にいけないとしてよいでしょうか。

解説

疑いを避けるべきかどうかを、場合を分けて論じた条です。程子は疑いを気にするのは内面の不足だと言いましたが、益軒はそれを、疑いを恐れて義を損なう場合に限った言葉と読みます。竇広国の話は『史記』張丞相列伝に見えます。一方、「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」は古楽府「君子行」の句で、身を慎むための避け方は善だとします。人事で身内を正当に評価することをためらう場合と、誤解を招く行動を控える場合とを区別する、公正さの繊細な判断を教えてくれます。

この章句が説くこと

避嫌公正程子嫌疑

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