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慎思録 / 巻之一

夬卦九四象曰。聞言不信。聰不明也。斯言最當體察。葢雖忠告而善導。然聞之者不能信。是因聞之不明。可謂頑愚而難曉也。雖言者賢哲。難奈之何。詩曰。誨爾諄諄。聽我藐藐者。是聰不明也。韓子曰。傳曰。惟善人能受善言。謂其聞而改之也。是聰之明也。薛文淸曰。稟氣之濁者。心不開明。善言不能入。篤信謂。聞善言不能信者。是亦禀氣之濁者也。世有剛愎不遜。而自許大過者。此人必聞言不信。是即聰不明者。因禀氣之濁也。

新字:夬卦九四象曰。聞言不信。聰不明也。斯言最当体察。葢雖忠告而善導。然聞之者不能信。是因聞之不明。可謂頑愚而難暁也。雖言者賢哲。難奈之何。詩曰。誨爾諄諄。聴我藐藐者。是聰不明也。韓子曰。伝曰。惟善人能受善言。謂其聞而改之也。是聰之明也。薛文清曰。稟気之濁者。心不開明。善言不能入。篤信謂。聞善言不能信者。是亦禀気之濁者也。世有剛愎不遜。而自許大過者。此人必聞言不信。是即聰不明者。因禀気之濁也。

書き下し

夬卦九四の象に曰く、言を聞くも信ぜず、聡明ならざればなりと。斯の言最も当に体察すべし。蓋し忠告して善く導くと雖も、然れども之を聞く者信ずること能はず。是れ之を聞くこと明らかならざるに因る。頑愚にして暁し難しと謂ふべし。言ふ者賢哲なりと雖も、之を奈何ともし難し。詩に曰く、爾に誨ふること諄諄たれども、我を聴くこと藐藐たりと。是れ聡明ならざるなり。韓子曰く、伝に曰く、惟善人のみ能く善言を受くと。其の聞きて之を改むるを謂ふなりと。是れ聡の明なるなり。薛文清曰く、稟気の濁れる者は、心開明ならず、善言入ること能はずと。篤信謂へらく、善言を聞きて信ずること能はざる者は、是れも亦稟気の濁れる者なり。世に剛愎不遜にして、自ら許すこと大いに過ぐる者有り。此の人必ず言を聞くも信ぜず。是れ即ち聡明ならざる者にして、稟気の濁れるに因るなり。

現代語訳

『易経』夬の卦の九四の象伝に「言葉を聞いても信じないのは、聞く力が明らかでないからだ」とあります。この言葉はよく身をもって考えるべきです。忠告してよく導いても、聞く者が信じることができないのは、聞くことが明らかでないからです。頑なで愚かで、悟らせがたいと言うべきです。言う者が賢者であっても、どうしようもありません。『詩経』に「おまえに懇切に教えても、私の言うことを上の空で聞く」とあるのは、聞く力が明らかでないのです。韓愈は「古い書に、善人だけが善い言葉を受け入れられる、とある。聞いて改めることを言うのだ」と言いました。これは聞く力が明らかなのです。薛文清は「生まれつき受けた気が濁っている者は、心が開けず明らかでないので、善い言葉が入らない」と言いました。私篤信が思うに、善い言葉を聞いて信じられない者も、やはり受けた気が濁っている者です。世の中には、強情で素直でなく、自分を大いに買いかぶっている者がいます。こういう人は必ず言葉を聞いても信じません。これは聞く力が明らかでない者で、受けた気が濁っているためです。

解説

忠告を受け入れられない心の状態を、『易経』『詩経』と唐・明の儒者の言葉を重ねて論じた条です。夬卦九四の象伝の言葉が主題で、『詩経』大雅・抑篇の「諄諄」「藐藐」の対比がそれを具体化しています。薛文清は明の朱子学者薛瑄で、益軒はその稟気の清濁という説明を受けて、強情で自負の強い人ほど善言が入らないと結びます。人の話を聞く力は、耳ではなく心の開き方の問題です。自分が最近、助言を素直に受け取れたかどうかを振り返りたくなる一条です。

この章句が説くこと

聡明忠告易経稟気謙虚

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