論語 / 顔淵篇
子貢問「友」。子曰:「忠吿而善道之,不可則止,毋自辱焉。」
書き下し
子貢、友を問う。子曰く、「忠告して善く之を道き、不可なれば則ち止む。自ら辱めらるること毋かれ。」
現代語訳
子貢が友人との付き合い方についてお尋ねした。先生がおっしゃった。「まごころをこめて忠告し、上手に導いてやる。聞き入れられなければやめる。(しつこくして)自分から恥をかくようなことはするな。」
解説
忠告には引き際がある、という現実的な助言である。真心から言い、うまく導く努力もする。それでも受け入れられないなら、そこでやめる。繰り返せば、相手は反発し、こちらは軽んじられる。友情そのものが壊れる。毋自辱焉、自分から辱めを受けるな、という言い方が率直だ。人を変えようとする熱意は、しばしば相手の意思を無視する。何度も言えばいつかは分かる、というのは言う側の希望であって、実際には逆効果になることが多い。ここで難しいのは、引き際を諦めと区別することである。孔子は関係を切れとは言っていない。忠告をやめよと言っただけだ。言うのをやめても、友であり続けることはできる。むしろ、言い続けて壊すより、黙って残るほうが次の機会を残す。
この章句が説くこと
忠告引き際友情節度子貢
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