慎思録 / 巻之一
讀六經語孟。以宋儒本註爲先。固善。然古註疏亦不可廢。朱子曰。漢魏諸儒。正音讀。通訓詁。考制度。辨名物。其功博矣。學者苟不先涉其流。則亦何以用其力於此。朱子於四書詩易。既作傳註。而其言如此。然則古注疏亦不可不考。夫朱子之作傳註。義理精當。固不待古注疏。然如訓詁文義名物制度。讓乎古註疏。而不詳解者。亦多矣。今人之讀經也。不考索於古註疏。却汲汲貪見於明儒之諸說。是舍本初。而趨末流也。葢看漢唐諸儒之註疏。則得文義之故實。而可爲考證者多矣。不可廢。
新字:読六経語孟。以宋儒本註為先。固善。然古註疏亦不可廃。朱子曰。漢魏諸儒。正音読。通訓詁。考制度。弁名物。其功博矣。学者苟不先渉其流。則亦何以用其力於此。朱子於四書詩易。既作伝註。而其言如此。然則古注疏亦不可不考。夫朱子之作伝註。義理精当。固不待古注疏。然如訓詁文義名物制度。譲乎古註疏。而不詳解者。亦多矣。今人之読経也。不考索於古註疏。却汲汲貪見於明儒之諸説。是舎本初。而趨末流也。葢看漢唐諸儒之註疏。則得文義之故実。而可為考証者多矣。不可廃。
書き下し
六経語孟を読むには、宋儒の本註を以て先と為すは、固より善し。然れども古註疏も亦廃すべからず。朱子曰く、漢魏の諸儒は、音読を正し、訓詁に通じ、制度を考へ、名物を弁ず。其の功博し。学者苟も先づ其の流れを渉らざれば、則ち亦何を以てか其の力を此に用ひんと。朱子は四書詩易に於て、既に伝註を作れども、其の言此くの如し。然らば則ち古注疏も亦考へざるべからず。夫れ朱子の伝註を作るや、義理精当にして、固より古注疏を待たず。然れども訓詁文義名物制度の如きは、古註疏に譲りて、詳解せざる者も、亦多し。今人の経を読むや、古註疏を考索せずして、却りて汲汲として明儒の諸説を見ることを貪る。是れ本初を舎てて、末流に趨くなり。蓋し漢唐諸儒の註疏を看れば、則ち文義の故実を得て、考証と為すべき者多し。廃すべからず。
現代語訳
六経や『論語』『孟子』を読むには、宋の儒者の注を先にするのが、もとより良いことです。しかし古い注疏もまた捨ててはいけません。朱子は「漢や魏の儒者たちは、字音を正し、語釈に通じ、制度を考え、名物を見分けた。その功績は広い。学ぶ者がまずその流れを渡らなければ、どうしてここに力を用いることができようか」と言いました。朱子は四書や『詩経』『易経』にすでに注を作っていながら、このように言っているのです。そうであれば古い注疏も考えなければなりません。朱子の注は、義理が精密で的確であり、もとより古い注疏を必要としません。しかし語釈や文の意味、名物制度などは、古い注疏に譲って詳しく解かないところも多いのです。今の人は経書を読むとき、古い注疏を調べずに、かえって明の儒者たちの諸説ばかりを急いで見たがります。これは本来の初めを捨てて末流に走るものです。漢や唐の儒者の注疏を見れば、文の意味の典拠を得て、考証に役立つものが多いのです。捨ててはいけません。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之四今の経を講ずる者、音注を捨てて読まず。且つ注を先にして経を後にする者は何ぞや。蓋し音注は本注の首に在り、先づ其の字義を明らかにせんと欲するなり。廃すべからず。注を先にし経を後にすれば、則ち注釈体突して、経義晦し。物に本末無くして、先後する所を知らずと謂ふべきなり。
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『慎思録』巻之四凡そ読書の法は、経を本と為し、史之に次ぎ、子集又其の次なり。其の功を用ふるの軽重本末次序は、須らく此の如くすべし。諸史子集を読むにも、亦た各須らく一書に専らにすべし。或いは二書を兼ね読むも亦た可なり。然れども一時に誦読する所の書多くして専一ならざれば、則ち紛冗にして条理を成さず。功力分かれて、精熟を做し難し。凡そ諸史子集は、其の精要なる者を抄出して冊子と為し、須らく日夜熟読して記誦を成すべし。此の如くすれば則ち功を用ふること少なくして、効多し。凡そ書を看るに、其の要用有る者は、須らく誦を成すべし。誦を成さざれば用を済し難し。
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『慎思録』巻之四古今先儒の説は、各異同有り。後儒の説は、固より偏邪なる者多し。苟も斯の道に於て齟齬する所有らば、則ち固より順従すべからず。然れども其の中に復た理の正しくして、旧説と小しく出入する者有り。須らく択びて取捨を為すべし。槩して是ならずと為すべからず。何ぞや。人は聖人に非ざれば、賢者と雖も、各長ずる所有り、短なる所有り。須らく偏側過不及の差無きこと能はざるべし。伯夷柳下恵を見て知るべきなり。聖人の言は、大中至正、純粋精微なり。譬へば嘉穀の能く人を養ふが如く然り。人の病有ると病無きと、宜しきを罄くさざるは無し。賢者の言は、偏側の病無きこと能はず。譬へば参芪朮甘の如し。固より上薬為り。然れども其の性為るや、偏勝の害無きこと能はず。須らく症に随ひて択び用ふべし。槩して任使すべからず。且つ人文の開明すること漸を以てする者は、自然の理なり。故に後人の説と雖も、或いは前人に勝る者も、亦た間之有り。故に咸非と為すべからず。須らく択びて之を去取すべし。此れ平正を悪みて新奇を好むに非ず。斯の学は一家の私に非ず。須らく道理の至当に帰することを要するのみ。一家に偏党して、聡明を蔽塞すべからず。
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『慎思録』巻之五陸放翁、柳書に跋して曰く、杜詩に注せんと欲せば、須らく少陵の地位を去ること大いに遠からずして、乃ち語を下すべし。然らずんば則ち注すること勿くして可なり。今の諸家は徒に口耳の学を以て揣摩して之を得んと欲す。可ならんや、と。篤信謂ふ、放翁の斯の語、能く後世の妄りに述作する者の膏肓に中る。須らく賢者の学有りて、而る後に聖人の経を伝ふべし。然らずんば則ち杜撰たるを免れず。孟子の学の至る処に到るが如き、能く孔子の道を述ぶる所以なり。孔孟の意を得て之を発明し、伝註を作る者は、程朱に止まるのみ。後世豪傑の士有りと雖も、及ぶべからざるのみ。
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『呻吟語』外篇・品藻・漢儒は道を雜へ、宋儒は道を隘くす漢儒は道を雜へ、宋儒は道を隘くす。宋儒は自ら宋儒の局面有り。學者若し道に入らば、且く宋儒を著けて其の胸中に橫たへしむるを休め。只だ六經四書を讀みて之を體玩せば、久久にして胸次自ら是れ同じからず。若し宋儒を看ば、先づ濂溪・明道を看よ。
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『慎思録』巻之六学術の綱紀節目と、学を為すの次第とは、学庸語孟に載する所の孔曾思孟の教ふる所を以て法と為して、之に背かざる者は、正学に係り、以て聖人の徒と為すべし。此と同じからざる者は、便ち異学と為し、聖人の徒と為すべからず。周程張朱の学の如きは、皆是れ道統の緒を続ぎ、聖学の正宗為り。然れども経説に於ては、各々所見の言を立て、相同じからざる者も亦多し。張子の正蒙に説く所の人物死生の説の如き、程朱の説と大いに齟齬を為す。其の余も亦出入する者之有り。然れども同じく是れ聖門の正派にして、其の道は則ち一なり。且つ中葉以来経解に載する所の宋儒の諸経説、及び宋季以来明季に至る諸儒の言、程朱の諸説と同じからざる者多し。是れ各々一家の言を立つるなり。苟し外道の意思有るに非ざれば、則ち経説の同じからざるを以て異学と為すべからず。須らく精しく択びて用捨を為すべし。