慎思録 / 巻之一
人生不滿百歲。豈可放蕩曠日。而不惜空過斯生耶。古人曰。天地有萬古。此身不再得。人生只百年。此日最易過。幸生其間者。不可不知有生之樂。又不可不懷虛生之憂。此言可時省。
新字:人生不満百歳。豈可放蕩曠日。而不惜空過斯生耶。古人曰。天地有万古。此身不再得。人生只百年。此日最易過。幸生其間者。不可不知有生之楽。又不可不懐虚生之憂。此言可時省。
書き下し
人生百歳に満たず。豈に放蕩して日を曠しくし、斯の生を空しく過ごすことを惜しまざるべけんや。古人曰く、天地は万古有り、此の身は再び得ず。人生は只百年、此の日最も過ぎ易し。幸ひに其の間に生まるる者は、有生の楽しみを知らざるべからず、又虚生の憂ひを懐かざるべからずと。此の言時に省みるべし。
現代語訳
人生は百年に満たないものです。どうして気ままに日を空しく過ごし、この一生を無駄に過ごすことを惜しまずにいられましょう。昔の人は「天地は万古にわたって続くが、この身は二度と得られない。人生はたかだか百年、今日という日は最も過ぎやすい。幸いにその間に生まれた者は、生きている楽しみを知らなければならず、また空しく生きることの憂いを抱かなければならない」と言いました。この言葉は時々省みるべきものです。
解説
時間の有限さを思い起こさせる短い条です。引かれている「天地は万古有り、此の身は再び得ず」以下の言葉は、明の洪自誠の『菜根譚』に見えるものです。前の条の顔之推の言葉と響き合い、一度きりの生を空しく過ごすなという主題を重ねています。注目したいのは、生きる楽しみを知ることと、空しく生きる憂いを持つことを並べている点です。焦って詰め込むのでも、ただ楽しむのでもなく、今日を味わいながら大切に使う、という釣り合いのとれた時間の感覚を教えてくれます。
この章句が説くこと
人生時間楽菜根譚生
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