慎思録 / 巻之一
顏之推曰。人生難得。勿空過。斯言有旨哉。葢羣生之中。爲人爲難。且不能再生。豈可空過此生乎。可惜醉生夢死。枉過一生也。苟爲人。而不能聞人道。雖長生不死。爲空過。然則爲人。則須要聞道。聞道之工夫。又唯在于能學而已矣。
新字:顔之推曰。人生難得。勿空過。斯言有旨哉。葢羣生之中。為人為難。且不能再生。豈可空過此生乎。可惜酔生夢死。枉過一生也。苟為人。而不能聞人道。雖長生不死。為空過。然則為人。則須要聞道。聞道之工夫。又唯在于能学而已矣。
書き下し
顔之推曰く、人生得難し、空しく過ごすこと勿かれと。斯の言旨有るかな。蓋し群生の中、人と為ること難しと為す。且つ再び生まるること能はず。豈に此の生を空しく過ごすべけんや。惜しむべし、酔生夢死して、枉げて一生を過ごすこと。苟も人と為りて、人道を聞くこと能はざれば、長生不死すと雖も、空しく過ごすと為す。然らば則ち人と為らば、則ち須らく道を聞くことを要すべし。道を聞くの工夫は、又唯能く学ぶに在るのみ。
現代語訳
顔之推は「人として生まれることは得がたい。むなしく過ごしてはならない」と言いました。この言葉には深い意味があります。あらゆる生き物の中で、人として生まれることは難しく、しかも二度と生まれることはできません。どうしてこの一生をむなしく過ごしてよいでしょうか。酔ったように生き夢のうちに死に、いたずらに一生を過ごすのは惜しいことです。人として生まれながら人の道を聞くことができなければ、長生きして死ななくても、むなしく過ごしたことになります。そうであれば、人として生まれた以上、道を聞くことが必要です。道を聞く工夫は、ただよく学ぶことにあるだけです。
解説
一度きりの人生を学ぶことに使えと促す条です。顔之推は六世紀の人で、その言葉は『顔氏家訓』帰心篇の結びにある「人身得難し、虚しく過ごすこと勿かれ」に当たります。帰心篇は仏教を擁護する篇ですが、益軒はこの一句を儒者として「道を聞く」ことに結びつけています。「酔生夢死」は程子の言葉として知られます。八十歳を越えてこの書をまとめた益軒の言葉として読むと重みが増します。忙しさに流される日々に、今日何を学んだかを振り返るきっかけになります。
この章句が説くこと
人生道学問顔之推時間
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