慎思録 / 巻之一
後世學者。雖耽嗜讀書。而無志知道。平生拘章句泥訓詁。而無精明思辨之功。故雖治經讀書之日久。不能彷彿知大道之要。或爲無用之閑言語。爲閑勞擾。而作拙詞。勞心費功。可謂作無益害有益也。其不進學者。宜也哉。
新字:後世学者。雖耽嗜読書。而無志知道。平生拘章句泥訓詁。而無精明思弁之功。故雖治経読書之日久。不能彷彿知大道之要。或為無用之閑言語。為閑労擾。而作拙詞。労心費功。可謂作無益害有益也。其不進学者。宜也哉。
書き下し
後世の学者、読書を耽嗜すと雖も、道を知るに志無く、平生章句に拘り訓詁に泥みて、精明思弁の功無し。故に経を治め書を読むの日久しと雖も、大道の要を彷彿として知ること能はず。或いは無用の閑言語を為し、閑労擾を為して、拙詞を作り、心を労し功を費やす。無益を作して有益を害すと謂ふべきなり。其の学に進まざるや、宜なるかな。
現代語訳
後世の学ぶ者は、読書に夢中になっても、道を知ろうとする志がなく、普段から章句にこだわり訓詁にとらわれて、明らかに考え分ける努力がありません。だから経書を修め本を読む日々が長くても、大いなる道の要をおぼろげにさえ知ることができません。あるいは役に立たない無駄話をし、無駄な骨折りをして、下手な詩文を作り、心を労し時間を費やします。無益なことをして有益なことを損なう、と言うべきでしょう。その人たちの学問が進まないのも、もっともなことです。
解説
読書量と学問の深さは別物だと戒める条です。章句や訓詁は経書の字句や語釈の研究で、それ自体は必要ですが、そこで止まって道理を考え抜かない学び方を益軒は批判しています。「無益を作して有益を害す」は『尚書』旅獒篇の「不作無益害有益」に基づく言い回しで、序文でも用いられています。本を多く読むことが目的化すると、肝心の考える時間が失われます。何のために読むのかを問い直し、読んだことを自分の頭で吟味する習慣を持ちたいものです。
この章句が説くこと
読書道思弁訓詁志
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