新論 / 長計
列聖山陵、奉祀素愼、其親盡則無廟、固其宜也、而如 神武天皇平定天下、 崇神天皇經營四方、 天智天皇再造區宇、盛德大業、功垂無窮、民至於今涵泳仁澤、而無廟祀之以報功德、豈不大闕典乎、〈世稱賀茂社祭 神武天皇、然古書無明文、人或疑之、今宜一新典禮、以大明祖功宗德之義也、〉佛法之行、葬祭皆據之、故 歴朝祀禮、親屬未盡、亦且無廟、而山陵亦多屬荒廢、可不謂之闕典乎、自古皇子皇孫、名賢大德、其功烈垂後、忠孝顯世者、或未盡列祀典、而其子孫亦或漂零沈淪、不得血食、亦闕典也、若能斟酌古今、廢者擧之、闕者補之、寓彝訓於祀典、使天下忠孝之心、與念祖追遠之誠、油然倶生、感戴之念、與畏鬼敬神之意、悚然倶萌、非所謂使民由之者乎、
新字:列聖山陵、奉祀素慎、其親尽則無廟、固其宜也、而如 神武天皇平定天下、 崇神天皇経営四方、 天智天皇再造区宇、盛徳大業、功垂無窮、民至於今涵泳仁沢、而無廟祀之以報功徳、豈不大闕典乎、〈世称賀茂社祭 神武天皇、然古書無明文、人或疑之、今宜一新典礼、以大明祖功宗徳之義也、〉仏法之行、葬祭皆拠之、故 歴朝祀礼、親属未尽、亦且無廟、而山陵亦多属荒廃、可不謂之闕典乎、自古皇子皇孫、名賢大徳、其功烈垂後、忠孝顕世者、或未尽列祀典、而其子孫亦或漂零沈淪、不得血食、亦闕典也、若能斟酌古今、廃者挙之、闕者補之、寓彝訓於祀典、使天下忠孝之心、与念祖追遠之誠、油然倶生、感戴之念、与畏鬼敬神之意、悚然倶萌、非所謂使民由之者乎、
書き下し
列聖の山陵は、奉祀素より慎む。其の親尽くれば則ち廟無きは、固より其の宜しきなり。而るに神武天皇の天下を平定し、崇神天皇の四方を経営し、天智天皇の区宇を再造したまふが如き、盛徳大業、功無窮に垂れ、民今に至るまで仁沢に涵泳す。而るに廟して之を祀り以て功徳に報ゆる無きは、豈に大いなる闕典ならずや。(世に賀茂社は神武天皇を祭ると称す。然れども古書に明文無く、人或いは之を疑ふ。今宜しく典礼を一新して、以て大いに祖功宗徳の義を明らかにすべきなり。)仏法の行はるるや、葬祭皆之に拠る。故に歴朝の祀礼、親属未だ尽きざるも、亦且つ廟無く、而して山陵も亦多く荒廃に属す。之を闕典と謂はざるべけんや。古より皇子皇孫、名賢大徳、其の功烈後に垂れ、忠孝世に顕るる者、或いは未だ尽く祀典に列せず、而して其の子孫も亦或いは漂零沈淪して、血食を得ず。亦闕典なり。若し能く古今を斟酌し、廃れたる者は之を挙げ、闕けたる者は之を補ひ、彝訓を祀典に寓して、天下の忠孝の心と、祖を念ひ遠きを追ふの誠とをして、油然として倶に生じ、感戴の念と、鬼を畏れ神を敬ふの意とをして、悚然として倶に萌さしめば、所謂民をして之に由らしむる者に非ずや。
現代語訳
歴代天皇の陵墓は、もとより慎んで祀ってきた。血縁の親しさが尽きた代には廟を設けないのは、もとより当然である。しかし神武天皇が天下を平定し、崇神天皇が四方を治め整え、天智天皇が国土を作り直したように、盛んな徳と大きな事業によって功績が限りなく後世に及び、民が今に至るまでその仁の恩沢にひたっている方々について、廟を設けて祀りその功徳に報いることがないのは、なんと大きな典礼の欠落ではないか。(世間では賀茂社が神武天皇を祭るというが、古書にはっきりした記述がなく、疑う人もいる。いま典礼を一新して、祖先の功と徳をたたえる意義を大いに明らかにすべきである。)仏法が行われるようになって、葬儀と祭祀はみな仏法によった。だから歴代の祀礼では、血縁の親しさがまだ尽きていなくても廟がなく、陵墓も多くが荒れ果てている。これを典礼の欠落と言わずにいられようか。昔から皇子・皇孫や名賢・大徳で、その功績が後世に及び、忠孝が世に顕れた人々の中には、まだすべてが祀典に列せられてはおらず、その子孫もまた落ちぶれて、祭りを受けることができない者がいる。これも典礼の欠落である。もし古今をくみ取って、廃れたものは再び起こし、欠けたものは補い、不変の教えを祀典に託して、天下の忠孝の心と、祖先を思い遠い昔をしのぶ誠とを、わき起こるように共に生じさせ、感謝して戴く思いと、鬼神を畏れ敬う心とを、身の引き締まるように共に芽生えさせるなら、これこそいわゆる「民をこれに従わせる」ということではないか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『呻吟語』内篇・倫理・福を求むるは已に君子の心に非ず郊社は、天地生成の大德に報ゆるなり。然れども災沴には禳有り、順成には祈有り。君の私田を為すは則ち仁、民の公田を為すは則ち忠なり。福を求むるを嫌はず、禍を免るるを嫌はず。子孫の先祖を祭るは、追養繼孝を以てなり。我が祖父母より此の身有るなり。曰く、「先人の澤に賴りて、以て其の餘慶を享く」と。曰く、「吾朝夕奉養して歡を承けしに、一旦復た杯棬を獻ぜず、心悲思して寄する無し、故に祭薦して以て吾が情を伸ぶるなり」と。曰く、「吾貧賤にして菽水を供するに足らず、今鼎食するも親逮ばず、心悲思して及ぶ莫し、故に祭薦して以て吾が悔いを志すなり」と。豈に其の遊魂虛位の能く我を福せんが為に之を求めんや。福を求むるは已に君子の心に非ず。而して一飯の設、數拜の勤を以て、福を先人に求む、仁孝誠敬の心果たして是くのごとくならんや。利を謀らず、報を責めず、其の感激を望まず。他人に在りてすら猶ほ然り、而るに況んや我が先人をや。『詩』の祭は必ず福を言ふ、而して『楚茨』の諸詩を尤も甚だしと為す、豈に訓と為す可けんや。吾獨り『采蘩』『采蘋』の二詩に取る有り。物を盡くし志を盡くし、以て吾が子孫の誠敬を達するのみ、他は及ばざるなり。此の道に明らかならば、則ち天下の萬事萬物皆我の當に為すべき所を盡くし、禍福利害は皆其の自ら至るに聽す。人事脩まりて外慕の心息み、道に向かふこと專らにして作輟の念忘れん。何者ぞ。性分に明らかにして冀悻する所無ければなり。
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『呻吟語』外篇・品藻・古人の笑ふ所宋儒は古に泥み、更に古昔の真偽、今世の是非を考へず。只だ祭祀一節の如し。古人は席地にして飲食に便ならず。故に簠簋籩豆を尚び、其の器は皆な高し。今古人を祭るに之を用ふるは、其の時に從ふなり。子孫の祖考を祭るは、只だ祖考の常に用ひし所の宜しきを用ふ可し。而るに簠簋籩豆是れ設くるは可ならんや。諸の此の類の如きは甚だ多く、皆な古人の笑ふ所なり。古人をして今に生まれしめば、舉動必ず此の如くならざらん。
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