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新論 / 長計

〈精氣爲物、游魂爲變、故其昭明焄蒿悽愴者、自非有祭祀以安之、則死者、不能有憑焉、使死者無憑、則於生者心、亦不能無歉然焉、如衆人、雖不自知其所以然、而有憾於冥冥者、人情之所不能免也、且生者亦以其死之無所安、而内無恃以自強、則不能無惑於身後之説也、故有祭祀者、以安之、父祖之與子孫、固同一氣、父祖即其前身、子孫即其後身、則其游魂者、去子孫而奚乎往也、故以子孫祭父祖、莫不感應、而昭明焄蒿悽愴者、賴以安焉、天者昭昭之多、而人在天地間、天地之氣常潛行於全身、而以生活也、故人之與天地、亦同一氣、而其元氣固與天地通、以人而祭天地、亦莫不感應、而昭昭之多者、賴以著焉、是以聖人事天祀先、幽明無憾、而天下服矣、後世慮不深遠、事天祀先之事、視以爲文具民生而無所畏敬、亦不知死之有所憑依、而疑懼之心生焉、疑懼生而民心無主、於是西夷得以陰禍冥福怵之、是所謂自侮而後人侮之者也、〉

新字:〈精気為物、游魂為変、故其昭明焄蒿悽愴者、自非有祭祀以安之、則死者、不能有憑焉、使死者無憑、則於生者心、亦不能無歉然焉、如衆人、雖不自知其所以然、而有憾於冥冥者、人情之所不能免也、且生者亦以其死之無所安、而内無恃以自強、則不能無惑於身後之説也、故有祭祀者、以安之、父祖之与子孫、固同一気、父祖即其前身、子孫即其後身、則其游魂者、去子孫而奚乎往也、故以子孫祭父祖、莫不感応、而昭明焄蒿悽愴者、頼以安焉、天者昭昭之多、而人在天地間、天地之気常潜行於全身、而以生活也、故人之与天地、亦同一気、而其元気固与天地通、以人而祭天地、亦莫不感応、而昭昭之多者、頼以著焉、是以聖人事天祀先、幽明無憾、而天下服矣、後世慮不深遠、事天祀先之事、視以為文具民生而無所畏敬、亦不知死之有所憑依、而疑懼之心生焉、疑懼生而民心無主、於是西夷得以陰禍冥福怵之、是所謂自侮而後人侮之者也、〉

書き下し

(精気は物と為り、游魂は変を為す。故に其の昭明焄蒿悽愴なる者は、祭祀有りて以て之を安んずるに非ざる自りは、則ち死者、憑る有ること能はず。死者をして憑る無からしむれば、則ち生者の心に於ても、亦歉然たること無きこと能はず。衆人の如きは、自ら其の然る所以を知らずと雖も、而も冥冥に憾み有る者は、人情の免るる能はざる所なり。且つ生者も亦其の死の安んずる所無きを以て、内に恃みて以て自ら強むる無ければ、則ち身後の説に惑ふこと無き能はざるなり。故に祭祀有る者は、以て之を安んずるなり。父祖の子孫に与けるは、固より同一の気、父祖は即ち其の前身、子孫は即ち其の後身なれば、則ち其の游魂なる者、子孫を去りて奚くにか往かんや。故に子孫を以て父祖を祭れば、感応せざる莫くして、昭明焄蒿悽愴なる者、頼りて以て安んず。天は昭昭の多きなり。而して人天地の間に在り、天地の気常に全身に潜行して、以て生活するなり。故に人の天地に与けるも、亦同一の気にして、其の元気固より天地と通ず。人を以て天地を祭れば、亦感応せざる莫くして、昭昭の多き者、頼りて以て著る。是を以て聖人天に事へ先を祀りて、幽明憾み無くして、天下服す。後世慮深遠ならず、天に事へ先を祀るの事、視て以て文具と為し、民生まれて畏敬する所無く、亦死の憑依する所有るを知らずして、疑懼の心生ず。疑懼生じて民心主無く、是に於て西夷陰禍冥福を以て之を怵れしむるを得。是れ所謂自ら侮りて後に人之を侮る者なり。)

現代語訳

(『易』に「精気は物となり、遊魂は変化をなす」とある。だから、立ちのぼる霊気が明らかに感じられ人の心を痛ましめるような死者の霊(昭明焄蒿悽愴)は、祭祀でこれを安んじるのでなければ、寄りどころを持つことができない。死者に寄りどころがなければ、生きている者の心にも、物足りない思いが残らずにはいない。普通の人々は、自分ではなぜそうなのかわからなくても、見えない世界に心残りをもつもので、これは人情として免れないことである。しかも生きている者も、自分が死んで安らぐ所がないと思い、内に頼んで自らを強くするものがなければ、死後についての説に惑わずにはいられない。だから祭祀によってこれを安んじるのである。父祖と子孫はもともと同じ一つの気であり、父祖はその前身、子孫はその後身であるから、その遊魂は子孫を離れてどこへ行くだろうか。だから子孫が父祖を祭れば感応しないことはなく、死者の霊はそれによって安らぐ。天は明るい光の集まりであり、人は天地の間にあって、天地の気がつねに全身をひそかにめぐって生きている。だから人と天地もまた同じ一つの気で、その元気はもともと天地と通じている。人が天地を祭れば、やはり感応しないことはなく、天の明るさはそれによって顕れる。こうして聖人は天に仕え祖先を祀り、幽明ともに心残りがなく、天下は服したのである。後世は思慮が深く遠くなく、天に仕え祖先を祀ることを形だけの飾りとみなし、民は生まれても畏れ敬うものがなく、死後に寄りどころがあることも知らないので、疑いと恐れの心が生まれる。疑いと恐れが生じて民心に主がなくなり、そこで西洋の夷狄が陰の禍や冥土の福を説いて民を脅すことができるのである。これがいわゆる「自分を侮ってのちに人がこれを侮る」ということである。)

解説

正志斎自身の長い割注で、祭祀がなぜ人の心を安んじるかを気の哲学で説明している。『易』繋辞伝の「精気は物と為り、游魂は変を為す」、『礼記』祭義の「昭明焄蒿悽愴」を引き、父祖と子孫は同一の気だから祭れば必ず感応すると論じる。結びの「自ら侮りて後に人之を侮る」は『孟子』離婁上の句で、外からの侵入を許すのは内の空洞だという主張である。祭祀を形式とみなした後世への批判は、儀礼の意味が忘れられると形だけが残るという指摘として、現代の組織の慣行を見直す手がかりにもなる。

この章句が説くこと

祭祀祖先気幽明民心易経

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