新論 / 虜情
虜航海萬里、而伺人國家、不得不因糧於敵、故所至或商或漁、莫非以爲屯田之用也、不然使彼徒欲獲鯨乎、則其近旁海中、捕鯨之處亦多、而何必遙遙度絶險、而捕之東洋也、〈臥兒狼德等地、與諳厄利隔一水耳、而海上鯨甚多、諸國人皆往而捕之云、〉而其爲船制、可以漁、可以商、亦可以戰、則惡知今日之漁船商舶果不爲異日之戰艦也、
新字:虜航海万里、而伺人国家、不得不因糧於敵、故所至或商或漁、莫非以為屯田之用也、不然使彼徒欲獲鯨乎、則其近旁海中、捕鯨之処亦多、而何必遥遥度絶険、而捕之東洋也、〈臥児狼徳等地、与諳厄利隔一水耳、而海上鯨甚多、諸国人皆往而捕之云、〉而其為船制、可以漁、可以商、亦可以戦、則悪知今日之漁船商舶果不為異日之戦艦也、
書き下し
虜は海を航ること万里にして、人の国家を伺ふ。糧を敵に因らざるを得ず。故に至る所或いは商し或いは漁し、以て屯田の用と為すに非ざる莫きなり。然らずして彼をして徒らに鯨を獲んことを欲せしめんか、則ち其の近旁の海中にも、捕鯨の処亦多し。而るに何ぞ必ずしも遥遥として絶険を度りて、之を東洋に捕らんや(臥児狼徳等の地は、諳厄利と一水を隔つるのみ。而して海上に鯨甚だ多く、諸国の人皆往きて之を捕ると云ふ)。而して其の船の制為る、以て漁すべく、以て商すべく、亦以て戦ふべし。則ち悪くんぞ今日の漁船商舶の果たして異日の戦艦と為らざるを知らんや。
現代語訳
彼らは万里の海を渡って他国をうかがうのだから、食糧は敵地でまかなわざるを得ない。だから行く先々で商売をしたり漁をしたりするのは、みな屯田(現地で食糧をまかなう備え)のためでないものはない。そうではなくて、ただ鯨を獲りたいだけだというなら、彼らの近くの海にも捕鯨の場所はたくさんある。どうしてわざわざはるばる険しい海を越えて、東洋まで来て捕る必要があろうか(グリーンランド(臥兒狼德)などの地は、イギリスと海一つ隔てているだけで、海上には鯨がたいへん多く、諸国の人がみな行って捕るという)。しかもその船の造りは、漁にも使え、商売にも使え、戦いにも使える。そうであれば、今日の漁船や商船が、後日の戦艦にならないとどうしてわかろうか。
解説
この章句が説くこと
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史記 項羽本紀漢の軍皆走り、相随ひて穀・泗水に入り、漢の卒十余万人を殺す。漢の卒皆南のかた山に走る、楚又追撃して霊壁の東睢水の上に至る。漢の軍卻き、楚の擠す所と為り、多く殺さる、漢の卒十余万人皆睢水に入り、睢水之が為に流れず。漢王を囲むこと三匝。是に於て大風西北より起こり、木を折り屋を発し、沙石を揚げ、窈冥にして昼晦く、楚の軍に逢迎す。楚の軍大いに乱れ、壊散す、而して漢王乃ち数十騎と遁れ去るを得たり、沛を過ぎ、家室を収めて西せんと欲す。楚も亦人をして之を沛に追はしめ、漢王の家を取らんとす。家皆亡げ、漢王と相見えず。漢王道に孝恵・魯元に逢ひ得て、乃ち載せて行く。楚の騎漢王を追ふ、漢王急にして、孝恵・魯元を車下に推し墮す、滕公常に下りて収めて之を載す。是くの如き者三たび。曰く、「急なりと雖も以て駆るべからず、柰何ぞ之を棄てん。」と。是に於て遂に脱するを得たり。太公・呂后を求むるも相遇はず。審食其太公・呂后に従ひて間行し、漢王を求む、反りて楚の軍に遇ふ。楚の軍遂に与に帰り、項王に報ず、項王常に軍中に置く。是の時呂后の兄周呂侯漢の為に兵を将ゐて下邑に居る、漢王間かに往きて之に従ひ、稍稍其の士卒を収む。滎陽に至り、諸々の敗軍皆会す、蕭何も亦関中の老弱の未だ傅せざる者を発して悉く滎陽に詣らしめ、復た大いに振るふ。楚彭城より起こり、常に勝ちに乗じて北ぐるを逐ひ、漢と滎陽の南京・索の間に戦ふ、漢楚を敗る、楚故を以て滎陽を過ぎて西する能はず。項王の彭城を救ひ、漢王を追ひて滎陽に至る、田横も亦斉を収むるを得て、田栄の子広を立てて斉王と為す。漢王の彭城に敗るるや、諸侯皆復た楚に与して漢に背く。漢滎陽に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉の粟を取る。漢の三年、項王数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢王食乏しく、恐れ、和を請ひ、滎陽以西を割きて漢と為さんとす。
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史記 酈生陸賈列伝之に謝す。酈生因りて六国従横の時を言ふ。沛公喜び、酈生に食を賜ひ、問ひて曰く、「計将に安くにか出でん」と。酈生曰く、「足下糾合の衆を起こし、散乱の兵を収むるも、万人に満たず。以て径ちに彊秦に入らんと欲す、此れ所謂虎口を探る者なり。夫れ陳留は天下の衝、四通五達の郊なり。今其の城又多く粟を積む。臣其の令に善し、請ふ之に使ひして、足下に下らしめん。即し聴かずんば、足下兵を挙げて之を攻めよ、臣内応と為らん」と。是に於て酈生を遣はして行かしめ、沛公兵を引きて之に随ひ、遂に陳留を下す。酈食其を号して広野君と為す。酈生其の弟酈商を言ひ、数千人を将ゐて沛公に従ひ西南に地を略せしむ。酈生常に説客と為り、諸侯に馳使す。漢の三年秋、項羽漢を撃ち、滎陽を抜く。漢兵遁れて鞏・洛を保つ。楚人淮陰侯の趙を破り、彭越の数(しばしば)梁の地に反するを聞き、則ち兵を分かちて之を救ふ。淮陰方に東して斉を撃ち、漢王数滎陽・成皋に困しみ、成皋以東を捐てて、鞏・洛に屯して以て楚を拒がんと計欲す。酈生因りて曰く、
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孫子・作戦篇孫子曰く、凡そ兵を用うるの法は、馳車千駟、革車千乗、帯甲十万、千里に糧を饋る。則ち内外の費、賓客の用、膠漆の材、車甲の奉、日に千金を費やし、然る後に十万の師挙がるなり。
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『甲陽軍鑑』品第四十三右之三人談合して、西は美濃岩村·同かんの大寺·三河野田足助·関東相摸·武蔵境·新田足利境·越後境·飛弾·越中·椎名が居舘迄通り筋に、ぬかわら出し置き、是れは御分国にて百貫の高に付、糠二十俵·藁二十把出させ、是れを置きて道通り町人·百姓に十分一をくれて、やすくうらする故、度々の陣にも諸侍糠·藁にことかく事なし、殊に糠·藁うつたる代物をば本の百姓へ返へすなり、上意なれ共如件、おしばかるは是れ以て信玄公御自利能人を召つかひ給ふ故なり一信虎公の御代には、
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孫子・行軍篇奔走して兵を陳ぬる者は、期するなり。半ば進み半ば退く者は、誘うなり。
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史記 酈生陸賈列伝是に於て酈生乃ち夜陳留の令に見え、之に説きて曰く、「夫れ秦は無道を為して天下之に畔く。今足下天下と従はば則ち以て大功を成すべし。今独り亡秦の為に城を嬰(めぐ)らして堅守す、臣窃かに足下の為に之を危ぶむ」と。陳留の令曰く、「秦の法は至って重きなり、以て妄言すべからず、妄言する者は類無し。吾以て応ずべからず。先生の臣に教ふる所以の者は、臣の意に非ざるなり。願はくは復た道ふ勿かれ」と。酈生留まりて宿臥し、夜半の時陳留の令の首を斬り、城を踰えて下りて沛公に報ず。沛公兵を引きて城を攻め、令の首を長竿に県けて以て城上の人に示して曰く、「趣(すみ)やかに下れ。而(なんぢ)の令の頭已に断たれたり。今より後に下る者は必ず先づ之を斬らん」と。是に於て陳留の人令の已に死するを見て、遂に相率ゐて沛公に下る。沛公陳留の南城門の上に舎り、其の庫兵に因り、積粟を食み、留まりて出入すること三月、従兵万を以て数へ、遂に入りて秦を破る。
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