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史記 / 項羽本紀

漢軍皆走,相隨入穀、泗水,殺漢卒十餘萬人。漢卒皆南走山,楚又追擊至靈壁東睢水上。漢軍卻,為楚所擠,多殺,漢卒十餘萬人皆入睢水,睢水為之不流。圍漢王三匝。於是大風從西北而起,折木發屋,揚沙石,窈冥晝晦,逢迎楚軍。楚軍大亂,壞散,而漢王乃得與數十騎遁去,欲過沛,收家室而西;楚亦使人追之沛,取漢王家:家皆亡,不與漢王相見。漢王道逢得孝惠、魯元,乃載行。楚騎追漢王,漢王急,推墮孝惠、魯元車下,滕公常下收載之。如是者三。曰:「雖急不可以驅,柰何棄之?」於是遂得脫。求太公、呂后不相遇。審食其從太公、呂后閒行,求漢王,反遇楚軍。楚軍遂與歸,報項王,項王常置軍中。是時呂后兄周呂侯為漢將兵居下邑,漢王閒往從之,稍稍收其士卒。至滎陽,諸敗軍皆會,蕭何亦發關中老弱未傅悉詣滎陽,復大振。楚起於彭城,常乘勝逐北,與漢戰滎陽南京、索閒,漢敗楚,楚以故不能過滎陽而西。項王之救彭城,追漢王至滎陽,田橫亦得收齊,立田榮子廣為齊王。漢王之敗彭城,諸侯皆復與楚而背漢。漢軍滎陽,築甬道屬之河,以取敖倉粟。漢之三年,項王數侵奪漢甬道,漢王食乏,恐,請和,割滎陽以西為漢。

新字:漢軍皆走,相随入穀、泗水,殺漢卒十余万人。漢卒皆南走山,楚又追撃至霊壁東睢水上。漢軍却,為楚所擠,多殺,漢卒十余万人皆入睢水,睢水為之不流。囲漢王三匝。於是大風従西北而起,折木発屋,揚沙石,窈冥昼晦,逢迎楚軍。楚軍大乱,壊散,而漢王乃得与数十騎遁去,欲過沛,収家室而西;楚亦使人追之沛,取漢王家:家皆亡,不与漢王相見。漢王道逢得孝恵、魯元,乃載行。楚騎追漢王,漢王急,推堕孝恵、魯元車下,滕公常下収載之。如是者三。曰:「雖急不可以駆,柰何棄之?」於是遂得脱。求太公、呂后不相遇。審食其従太公、呂后閒行,求漢王,反遇楚軍。楚軍遂与帰,報項王,項王常置軍中。是時呂后兄周呂侯為漢将兵居下邑,漢王閒往従之,稍稍収其士卒。至滎陽,諸敗軍皆会,蕭何亦発関中老弱未傅悉詣滎陽,復大振。楚起於彭城,常乗勝逐北,与漢戦滎陽南京、索閒,漢敗楚,楚以故不能過滎陽而西。項王之救彭城,追漢王至滎陽,田横亦得収斉,立田栄子広為斉王。漢王之敗彭城,諸侯皆復与楚而背漢。漢軍滎陽,築甬道属之河,以取敖倉粟。漢之三年,項王数侵奪漢甬道,漢王食乏,恐,請和,割滎陽以西為漢。

書き下し

漢の軍皆走り、相随ひて穀・泗水に入り、漢の卒十余万人を殺す。漢の卒皆南のかた山に走る、楚又追撃して霊壁の東睢水の上に至る。漢の軍卻き、楚の擠す所と為り、多く殺さる、漢の卒十余万人皆睢水に入り、睢水之が為に流れず。漢王を囲むこと三匝。是に於て大風西北より起こり、木を折り屋を発し、沙石を揚げ、窈冥にして昼晦く、楚の軍に逢迎す。楚の軍大いに乱れ、壊散す、而して漢王乃ち数十騎と遁れ去るを得たり、沛を過ぎ、家室を収めて西せんと欲す。楚も亦人をして之を沛に追はしめ、漢王の家を取らんとす。家皆亡げ、漢王と相見えず。漢王道に孝恵・魯元に逢ひ得て、乃ち載せて行く。楚の騎漢王を追ふ、漢王急にして、孝恵・魯元を車下に推し墮す、滕公常に下りて収めて之を載す。是くの如き者三たび。曰く、「急なりと雖も以て駆るべからず、柰何ぞ之を棄てん。」と。是に於て遂に脱するを得たり。太公・呂后を求むるも相遇はず。審食其太公・呂后に従ひて間行し、漢王を求む、反りて楚の軍に遇ふ。楚の軍遂に与に帰り、項王に報ず、項王常に軍中に置く。是の時呂后の兄周呂侯漢の為に兵を将ゐて下邑に居る、漢王間かに往きて之に従ひ、稍稍其の士卒を収む。滎陽に至り、諸々の敗軍皆会す、蕭何も亦関中の老弱の未だ傅せざる者を発して悉く滎陽に詣らしめ、復た大いに振るふ。楚彭城より起こり、常に勝ちに乗じて北ぐるを逐ひ、漢と滎陽の南京・索の間に戦ふ、漢楚を敗る、楚故を以て滎陽を過ぎて西する能はず。項王の彭城を救ひ、漢王を追ひて滎陽に至る、田横も亦斉を収むるを得て、田栄の子広を立てて斉王と為す。漢王の彭城に敗るるや、諸侯皆復た楚に与して漢に背く。漢滎陽に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉の粟を取る。漢の三年、項王数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢王食乏しく、恐れ、和を請ひ、滎陽以西を割きて漢と為さんとす。

現代語訳

漢の軍は皆敗走し、互いに押し合って穀水・泗水に落ち込み、楚は漢の兵十余万人を殺した。漢の兵は皆南の山へ逃げたが、楚はさらに追撃して霊壁の東の睢水のほとりに至った。漢の軍は退却したが、楚に押しまくられて多くが殺され、漢の兵十余万人が皆睢水に落ち込み、睢水はそのために流れがせき止められた。楚軍は漢王を三重に包囲した。そのとき大風が西北から吹き起こり、木を折り家屋を吹き飛ばし、砂や石を巻き上げて、あたりは昼なのに真っ暗になり、楚の軍に正面から吹きつけた。楚の軍は大いに乱れて散り散りになり、漢王はようやく数十騎とともに逃れることができた。漢王は沛に立ち寄って家族を連れて西へ行こうとした。楚もまた人をやって沛まで追わせ、漢王の家族を捕らえようとした。家族は皆逃げてしまっており、漢王と会えなかった。漢王は途中で孝恵(のちの恵帝)と魯元(のちの魯元公主)に出会い、車に乗せて逃げた。楚の騎兵が漢王を追ってきた。漢王は切羽詰まって、孝恵と魯元を車から突き落とした。滕公(夏侯嬰)はそのたびに車から降りて二人を拾い上げて乗せた。こういうことが三度あった。滕公は言った。「いくら切迫しているとはいえ、これ以上速くは走らせられない。どうして子どもを見捨てられようか」。こうしてついに逃れることができた。太公(劉邦の父)と呂后を探したが、出会えなかった。審食其は太公と呂后に付き従って抜け道を行き、漢王を探していたが、かえって楚の軍に出くわしてしまった。楚の軍はそのまま彼らを連れ帰って項王に報告し、項王は彼らを常に軍中に置いた(人質とした)。このとき、呂后の兄の周呂侯が漢のために兵を率いて下邑にいたので、漢王はひそかにそこへ行って身を寄せ、少しずつ兵士を集めていった。滎陽に着くと、敗れた諸軍が皆集まってきた。蕭何もまた関中の老人や、まだ兵籍に登録されていない若者を動員して皆滎陽に送り込んだので、漢は再び大いに勢いを取り戻した。楚は彭城から出撃し、常に勝ちに乗じて敗走する敵を追ったが、漢と滎陽の南の京・索の間で戦い、漢は楚を破った。そのため楚は滎陽を越えて西へ進むことができなかった。項王が彭城を救って漢王を滎陽まで追っていた間に、田横もまた斉を取り戻し、田栄の子の田広を立てて斉王とした。漢王が彭城で敗れると、諸侯は皆再び楚の側について漢に背いた。漢は滎陽に陣を置き、甬道を築いて黄河まで連ね、敖倉(秦以来の大穀倉)の穀物を取り入れた。漢の三年(前204年)、項王はたびたび漢の甬道を襲って奪ったので、漢王は食糧が乏しくなって恐れ、和睦を求め、滎陽から西を漢の領分にしようとした。

解説

彭城の大敗と、そこからの劉邦の立て直しの段です。漢軍は川に追い落とされ、睢水の流れが止まるほどの死者を出しました。劉邦は突然の大風に助けられて脱出しますが、追っ手に迫られて我が子を車から突き落とし、御者の夏侯嬰が三度拾い上げたという逸話は、劉邦の非情さと夏侯嬰の忠義を対照させる場面として有名です。父と妻は楚の捕虜となりました。それでも劉邦は敗残兵を集め、後方の蕭何が関中から絶えず兵を送り込んだことで、滎陽で持ち直します。この段で見逃せないのは、蕭何の後方支援と敖倉の穀物という補給の力です。項羽は戦場で勝ち続けても、敗れた劉邦を立ち直らせる仕組みには勝てませんでした。一度の大敗で終わらない組織は、前線の強さより後方の支えを持っているのです。

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