新論 / 虜情
而一旦絶聲息、閴無形迹、於是諳厄利突然而來擾長崎、闌入浦賀、常往來渟泊洋中、夫鄂羅之懷禍心、百方窺伺、殆將百年、而飈去電滅、不見影響、諳厄利者先是其來甚疎、而忽與鄂羅相代、偪人之側、搜人之懷、不亦甚可怪乎、鷙鳥之撃也、必匿其形、則將安知非鄂羅内自潛伏、誘諳厄利爲先驅、深其機不見形迹也、〈尾張漂民嘗爲諳厄利所拯、薩摩漂民爲鄂羅所拯、洋中相遇、諳厄利託鄂羅同護送之、唐太月多賴戍卒、嘗爲鄂羅所捕、押送至柬薩加訊鞠、時諳厄亦在座、其通好合謀可見矣、丁卯之虜變、適有撲斯動商舶、至長崎乞薪水、撲斯動者海東新諳厄利地、而其府所在也、鄂羅擾東北邊、而新諳厄利窺西邊、其機深矣、〉
新字:而一旦絶声息、閴無形迹、於是諳厄利突然而来擾長崎、闌入浦賀、常往来渟泊洋中、夫鄂羅之懐禍心、百方窺伺、殆将百年、而飈去電滅、不見影響、諳厄利者先是其来甚疎、而忽与鄂羅相代、偪人之側、捜人之懐、不亦甚可怪乎、鷙鳥之撃也、必匿其形、則将安知非鄂羅内自潜伏、誘諳厄利為先駆、深其機不見形迹也、〈尾張漂民嘗為諳厄利所拯、薩摩漂民為鄂羅所拯、洋中相遇、諳厄利託鄂羅同護送之、唐太月多頼戍卒、嘗為鄂羅所捕、押送至柬薩加訊鞠、時諳厄亦在座、其通好合謀可見矣、丁卯之虜変、適有撲斯動商舶、至長崎乞薪水、撲斯動者海東新諳厄利地、而其府所在也、鄂羅擾東北辺、而新諳厄利窺西辺、其機深矣、〉
書き下し
而るに一旦声息を絶ち、閴として形迹無し。是に於いて諳厄利突然として来たりて長崎を擾し、浦賀に闌入し、常に洋中に往来渟泊す。夫れ鄂羅の禍心を懐き、百方窺伺すること、殆ど将に百年ならんとす。而るに飈のごとく去り電のごとく滅して、影響を見ず。諳厄利なる者は、是より先其の来たること甚だ疎なるに、忽ち鄂羅と相代はりて、人の側に偪り、人の懐を捜る、亦甚だ怪しむべからずや。鷙鳥の撃つや、必ず其の形を匿す。則ち将た安くんぞ鄂羅の内に自ら潜伏し、諳厄利を誘ひて先駆と為し、其の機を深くして形迹を見さざるに非ざるを知らんや(尾張の漂民嘗て諳厄利の拯ふ所と為り、薩摩の漂民鄂羅の拯ふ所と為る。洋中に相遇ひ、諳厄利鄂羅に託して同じく之を護送せしむ。唐太・月多頼の戍卒、嘗て鄂羅の捕ふる所と為り、押送して柬薩加に至りて訊鞠す。時に諳厄も亦座に在り。其の通好合謀見るべし。丁卯の虜変に、適々撲斯動の商舶有り、長崎に至りて薪水を乞ふ。撲斯動なる者は海東の新諳厄利の地にして、其の府の在る所なり。鄂羅東北の辺を擾して、新諳厄利西辺を窺ふ。其の機深し)。
現代語訳
ところがロシアはあるとき急に音信を絶ち、ひっそりと跡形もなくなった。するとイギリスが突然やって来て長崎を騒がせ、浦賀にみだりに入りこみ、いつも海上を行き来して停泊するようになった。そもそもロシアが悪心を抱いてあらゆる手でうかがってきたのは、ほぼ百年に及ぶ。それなのにつむじ風のように去り稲妻のように消えて、何の気配もない。イギリスはそれまでめったに来なかったのに、急にロシアと入れ替わって、人のそばに迫り、人の懐を探っている。なんとも怪しいことではないか。猛禽が獲物を襲うときは、必ずその姿を隠すものである。そうであれば、ロシアが内に潜み、イギリスを誘って先駆けとし、たくらみを深くして跡を見せないのではないと、どうして言えようか(尾張の漂流民がかつてイギリスに救われ、薩摩の漂流民がロシアに救われたが、海上で出会うと、イギリスはロシアに託していっしょに護送させた。樺太(唐太)・月多頼の守備兵がかつてロシアに捕らえられ、カムチャツカ(柬薩加)に護送されて取り調べを受けたとき、イギリス人もその場にいた。両国が親しく通じ合い、ともにたくらんでいることがわかる。丁卯〔文化四年、1807〕のロシアの襲撃のときには、ちょうどボストン(撲斯動)の商船が長崎に来て薪と水を求めた。ボストンは海の東のニューイングランドの地で、その役所のあるところである。ロシアが東北の辺境を騒がせ、ニューイングランドが西の辺境をうかがう。そのたくらみは深い)。
解説
この章句が説くこと
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風憲忠告・臨難苐九夫れ人臣にして國家言責の任に當れば、刑辱の事、敢えてその無き有るを必とせず、要は順って處り靜かに伺い、理を以てこれを□するに在るのみ。若し乃ち哀を求め憐れみを乞い、惴讋(ずいしょう)して所無ければ、巳に先ず撓(たわ)む、何を以てか自ら眀(あき)らかにせん。夫れ已の職を盡くし、國の爲民の爲にして罪を得るは、君子は以て辱と為さず、以て榮と為す。縲紲(るいせつ)せらると雖も、荊楚せらると雖も、斧鉞せらると雖も、庸(なん)ぞ愧(は)ずること何かあらんや。歷(あまね)く自古(いにしえよ)り禍患に處して亂れざる者を觀るに、三代よりの下、子路の纓(えい)を結ぶが如き、宜僚(ぎりょう)の色を正すが如き、王景文の客と碁を弈(う)つが如き、劉禕(りゅうい)の自ら謝表を書すが如き、魏元忠の赦を聞きて動ぜざるが如き、是れ皆真に義命の在る所を知る有るを以てなり、區區(くく)たる人力の得て移す所に非ざるなり。然れども士君子平昔(へいせき)飬う所、其の情と偽と、焉(ここ)に於いて以て見るべし。李斯刑に臨みて父子相泣き、楊子雲(揚子雲)收(とら)えられて□閣ほとんど死せんとし、王坦之謝安と名を齊しくするも、桓溫朝に來たるや倒(さかしま)に手板を執り、崔浩自ら子房に比するも、史事を辨ずるが為に聲嘶(か)れ股栗(こりつ)し、便溺(べんでき)隱すこと能わず。此れ彼れ惟だ名を事とするのみにして、聖賢性命の學に於いては實に未だ甞て諸(これ)を心に淂(え)ざりしを見るべし。善いかな、韓文公の言に曰く、「儒者の患難に於けるや、苟しくも其れ自らこれを取るに非ざれば、其の拒みて懷に受けざるや、河堤を築きて以て屋霤(おくりゅう)を障(ふせ)ぐが若し。其の容れてこれを消すや、水の海に於ける、氷の夏日に於けるが若し。其の玩びてこれを文辭を以て忘るるや、金石を奏でて以て蟋蟀(しっしゅつ)の鳴くを破るが若し」と。故に君子の學は、理を眀らかにし自ら信ずるを以て貴しと為す。
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『墨子』七患子墨子曰く、國に七患有り。七患なる者は何ぞ。城郭溝池、守る可からずして、宫室を治む、一の患なり。邊寇、境に至るも、四鄰救う莫し、二の患なり。先ず民力を無用の功に盡くし、無能の人に賞賜し、民力、無用に盡き、財寳、侍客に虚し、三の患なり。仕うる者は祿を待ち、游ぶ者は反るを思い、君は法を脩めて臣を討ち、臣は懾れて敢えて拂らわず、四の患なり。君、自ら以て聖智と為して事を問わず、自ら以て安彊と為して守備無く、四鄰、之を謀るも戒を知らず、五の患なり。言う所は忠ならず、忠とする所は信ならず、六の患なり。畜え種うる菽粟、以て之を食らわすに足らず、大臣、事を治むるに足らず、賞賜は喜ばしむる能わず、誅罰は威らしむる能わず、七の患なり。七患を以て國に居らば、必ず社稷無からん。七患を以て城を守らば、敵至りて國傾かん。七患の當たる所、國に必ず殃有り。
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