新論 / 虜情
當是時也、西夷之唱妖敎甚力、那勿蠟則以其王而自入、波羅泥則以王之姪而入、入輙皆就戮、於是乎夷輩膽落、相告曰、日本人有三眼、國威之震海外、亦足稱快矣、〈明人以戊寅歳、筆是事於書、實寛永十五年也、本注云、再到 日本開敎、被其兩殺、故云、今按、此似指那勿蠟波羅泥、而那勿蠟王以寛永丙子就戮者、其年暦正當戊寅前二年、如波羅泥王姪就戮、則己卯年事、後於戊寅一年、疑有一誤、又按、島原賊伏誅、亦在戊寅年、是亦足寒虜膽、而明人所言、不及島原事者、蓋西夷既知而畏之、適明人未聞也、〉
新字:当是時也、西夷之唱妖教甚力、那勿蝋則以其王而自入、波羅泥則以王之姪而入、入輙皆就戮、於是乎夷輩胆落、相告曰、日本人有三眼、国威之震海外、亦足称快矣、〈明人以戊寅歳、筆是事於書、実寛永十五年也、本注云、再到 日本開教、被其両殺、故云、今按、此似指那勿蝋波羅泥、而那勿蝋王以寛永丙子就戮者、其年暦正当戊寅前二年、如波羅泥王姪就戮、則己卯年事、後於戊寅一年、疑有一誤、又按、島原賊伏誅、亦在戊寅年、是亦足寒虜胆、而明人所言、不及島原事者、蓋西夷既知而畏之、適明人未聞也、〉
書き下し
是の時に当たりてや、西夷の妖教を唱ふること甚だ力む。那勿蠟は則ち其の王を以て自ら入り、波羅泥は則ち王の姪を以て入る。入れば輙ち皆戮に就く。是に於いてか夷輩胆落ち、相告げて曰く、日本人に三眼有りと。国威の海外に震ふ、亦快と称するに足る(明人戊寅の歳を以て是の事を書に筆す、実に寛永十五年なり。本注に云ふ、再び日本に到りて教を開き、其の両殺を被る、故に云ふと。今按ずるに、此れ那勿蠟・波羅泥を指すに似たり。而して那勿蠟王の寛永丙子を以て戮に就く者は、其の年暦正に戊寅の前二年に当たる。波羅泥王姪の戮に就くが如きは、則ち己卯の年の事にして、戊寅に後るること一年、疑ふらくは一誤有らん。又按ずるに、島原の賊の誅に伏するも、亦戊寅の年に在り。是れ亦虜の胆を寒からしむるに足る。而るに明人の言ふ所、島原の事に及ばざる者は、蓋し西夷既に知りて之を畏るるも、適々明人未だ聞かざるなり)。
現代語訳
このころ、西洋人は邪な教えを唱えることにたいへん力を入れていた。那勿蠟は国王みずから入ってきて、波羅泥は王の甥として入ってきたが、入るとすぐにみな処刑された。そこで西洋人たちは肝をつぶし、「日本人には目が三つある」と言い合った。国威が海外にとどろいたのは、まことに痛快なことである(明の人が戊寅の年にこのことを書物に記した。これは寛永十五年〔1638〕である。原注に「再び日本に来て布教し、二度とも殺された。だからこう言う」とある。今考えるに、これは那勿蠟と波羅泥を指すようである。ところが那勿蠟の王が処刑されたのは寛永丙子〔十三年〕で、ちょうど戊寅の二年前にあたる。波羅泥の王の甥が処刑されたのは己卯〔寛永十六年〕のことで、戊寅より一年後になるので、どこかに誤りがあるのではないか。また考えるに、島原の乱の賊が誅に伏したのも戊寅の年である。これもまた西洋人の肝を冷やすに足ることである。それなのに明の人の言葉が島原の事件に触れていないのは、おそらく西洋人はすでに知って恐れていたが、たまたま明の人がまだ聞いていなかったのだろう)。
解説
この章句が説くこと
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『新論』虜情豊臣氏に至りて、胡僧及び愚民の夷教に汚るる者を駆りて、尽く諸を海外に出だす。東照宮興りて、禁を設くること殊に厳なり。故に伊斯把・諳厄利諸蕃の相踵いで至る有りと雖も、卒に夷教を以て入ること能はず(東照宮嘗て西宗真なる者を西洋に遣はし、三年にして還る。台徳公も亦揖斐某を遣はして西洋に至らしめ、七年にして還る。皆虜情を探偵する所以にして、蓋し此に由りて審らかに異言を識ると云ふ。痛く之を禁絶する所以なり。大猷公も亦嘗て訳官を遣はして天竺に往き、精舎を視しむ。疑ふらくは亦深意有らん)。寛永の初め、令を下して胡神の像を鋳、愚民の過ちを悔いて正に帰する者をして足もて之を踏ましむ。外夷も亦自ら脱するを得ざるを度り、長崎を望みて股栗す。清人の或いは胡神の堂を毀たんと欲するも、亦之を引きて以て言を為す(西湖志・台湾志等の載する所、大約此くの如し)。国家の興隆には天も亦之を保佑す。故に時に島原の賊起こりて、天下の邪徒を一城に聚め、一掃して之を殲す。余燼再び燃ゆることを得ざるは、実に此に由るなり。
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